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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

大宴会のたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ59

ルカによる福音書14章12節〜24節

(2023年12月10日)

イエス・キリストが語った「大宴会のたとえ」について解説します。この大宴会のたとえは、神の国への招きについて教えています。

礼拝メッセージ音声

参考資料

15節の「神の国」は、救い主が地上に建設する理想的な王国のことです。マタイの福音書では「天の御国」とも呼ばれます。また、黙示録20章から神の国が千年間続くことが分かっているので、一般には「千年王国」という名で知られています。神の国の実現については、旧約聖書のあちこちに預言されています。

千年王国の実現によって、呪われてしまった被造世界が回復されて、ほぼアダム堕落以前のエデンの園の時代の姿を取り戻します。戦争も災害も病も自然破壊もなく、地は豊かに作物を育てます。現在の肉食獣は草食化し、動物が人や他の動物を傷つけることもなくなります。

千年王国の千年が終わると今の宇宙は消え去り、新しい天と新しい地(新天新地)が創造されます。千年王国の住民はそのまま新天新地に移住して、永遠に続く祝福を味わいます。

19節の「くびき」は、牛などの家畜を2頭並べ、その首同士をつなぐ器具です。そこに鋤や荷台を接続して引っ張らせました。ですから「五くびきの牛」は10頭です。

イントロダクション

今回紹介するのは、大宴会のたとえです。このたとえ話では、複数の種類の人たちが宴会に招かれました。これは将来地上に実現する神の国(天の御国、千年王国)への招きを表しています。

私たちも神の国に招かれています。その意味を教えていただきましょう。

1.神の国についてのたとえ

宴会に招くべき人

ペレア伝道
前回申し上げましたが、イエスさまはご自分が人となった神であることを宣言なさったため、指導者たちから殺されそうになります。そして、ヨルダン川の東側地域であるペレヤ地方に退避なさいました。ペレヤに渡ったイエスさまは、そこで救いのメッセージを語りながらエルサレムに向かっていかれます(ルカ13:22)。
パリサイ人の家での食事会
当時のイスラエルでは、聖書の教師(ラビ)が町を訪問した際に、金持ちなどがそのラビを食事に招いて歓迎する習慣がありました。その食事会では、町の人たちも中庭までは自由に入ることができ、ラビの教えを聞くことができました。

そのようなわけで、イエスさまがある町にいらっしゃったとき、1人のパリサイ人がイエスさまを食事に招きました(1節)。

その食事の席で、イエスさまはいくつかの教えをなさいました。
  1. 「安息日に人をいやしてはいけない」というパリサイ派の教えの間違い(2-6節)
  2. 上座を選んで座ろうとしている人たちに対する「謙遜であれ」という戒め(7-11節)
それからイエスさまは、食事に招いてくれた人に対しても次のような話をなさいました。
主催者への教え
(12-14節)イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。「昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするためです。食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」

お金を持っている人たちは食事に招かれたお返しをすることができますが、体の障がいなどさまざまな事情で貧しい暮らしをしている人たちはお返しできません。その代わり、別のお返しがあるとイエスさまはおっしゃいます。その別のお返しは、義人の復活のときに与えられます。

「義人の復活のとき」とは、救い主が地上に神の国(天の御国、千年王国)を実現したときのことです。神の国には義人、すなわち神さまが一方的に与えてくださる罪の赦しを信じて受け取り救われた人たちが住みます。神の国が実現していたときには死んでしまっていたとしても、復活してそこに入ることができるのです。

神さまを信じた人はすべての罪が赦されていますから、生きている間に行なった悪いことに対する罰を受けることはありません。しかし、生きている間に行なった良いわざは神さまに覚えられていて、それに対する報いをいただくことができます。

ですから、地上では貧しい人たちからお返ししてもらえなかったとしても、神の国で神さまが代わりのお返しをくださいます。

さて、イエスさまから神の国における報いの話を聞いて、一人の人が声を上げました。
客の一人の声
(15節)イエスとともに食卓に着いていた客の一人はこれを聞いて、イエスに言った。「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」

イスラエルの人々の信仰生活において、食事は非常に重要な要素でした。たとえば誰かが神殿でいけにえの動物を連れてくると、脂肪は焼いて神さまにささげますが、肉はささげた人と祭司が食べました。ささげものの種類によっては、祭司以外のレビ人や貧しい人たちに分けて食べてもらうこともありました。過越などの祭りでも、食事が中心的な役割を果たします。

イスラエルの宴会の食事は、神さまとの交わり、そして同じ神さまを信じる者同士の交わりを表しています。それは神の国で与えられるさらに素晴らしい祝福を象徴しています。この客が言った「神の国で食事をする人」は、神さまに受け入れられて神の国において大いに祝福される人です。だから幸いだとこの人は言いました。まさにその通りです。

その声を聞いて、イエスさまは大宴会のたとえ話を語られました。

大宴会のたとえ

盛大な宴会
(16-17節)するとイエスは彼にこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。宴会の時刻になったのでしもべを遣わし、招いていた人たちに、『さあ、おいでください。もう用意ができましたから』と言った。

大宴会は神の国の祝福を象徴しています。ですから、宴会に招かれるということは神の国に入れてもらえるということです。「救われる」と言い換えることができます。

そして、いよいよ盛大な宴会が始まる時間になりました。つまり救い主によって地上に神の国が実現して、人々を招き入れる用意ができたということです。
断る人たち
(18-20節)ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、ご容赦ください。』別の人はこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それを試しに行くところです。どうか、ご容赦ください。』また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』

招待することが予定されていた人たちは、なんと宴会への参加を断ってきました。しかもその理由も納得できるようなものではありません。あらかじめ宴会があることが分かっているのですから、前もって準備しておけばいくらでも都合が付けられるはずです。

要するにこの人たちは宴会に出席したくなくて、もっともらしい言い訳を並べているに過ぎません。
新たな招待客
(21節)しもべは帰って来て、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たちをここに連れて来なさい。』

最初に招待していた人たちに断られた主人は、別の人たちを連れてくるように命じました。それは、貧しい人たちや体に障がいを抱えた人たちです。
さらなる招待客
(22-23節)しもべは言った。『ご主人様、お命じになったとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。

席が余っていることを知った主人は、さらに多くの人を引っ張ってきなさいと命じました。その人たちは近所の顔見知りではありません。会ったこともないような人たちです。それでも連れてきなさいと主人は言いました。
最初に招待されていた人たちへの言及
(24節)言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。』」

こうして神の国の祝福を象徴する宴会が始まります。 しかし、そこには元々招待されていた人たちの姿はありません。たとえ後になって「やっぱり参加したいので入れてください」と言ってやってきても、その人たちは決して招き入れられることがありません。イエスさまはそのようにおっしゃいます。

では、このたとえ話は何を意味しているのでしょうか。宴会に招かれた3種類の人たちが誰のことを指しているか考えてみましょう。

たとえの意味

最初に招待されていた人たち
この人たちはパリサイ人を始めとするイスラエルの霊的リーダーたちです。

彼らは旧約聖書の預言についてよく学んでいました。やがて救い主が現れて神の国と建設すること、そしてその救い主がどのようなお方なのかということを知っていました。ですから、実際にイエスさまの教えを聞いたり行ないを目撃したりすれば、この方が救い主だということにすぐに気づいたはずです。

そして、イエスさまのことを一般の民衆に紹介して、あなたたちもこの方を救い主だと認めて従いなさいと勧めなければならないはずでした。

ところが、指導者たちのほとんどはイエスさまを拒否しました。たとえ話の中で招かれた人たちは自分自身の都合を優先させて、招待を拒否しました。それと同じように指導者たちは自分たちの教えや伝統にこだわって、それから逸脱しているイエスさまの言動を受け入れられなかったのです。
  • たとえば律法学者やパリサイ人は、安息日に人をいやしてはいけないと教えていましたが、モーセの律法にはそのような教えはなく律法学者たちが勝手に作り上げた規則です。そこでイエスさまは安息日でも平気で人をいやされました。
  • 祭司たちが属しているサドカイ派の人たちは、死んだ後の世界のことには無頓着で、地上での儀式やお金儲けに興味関心があります。特に神殿と大祭司の権威を非常に重視していました。しかしイエスさまは、自分は神殿よりも偉大だなどと言ったり、祭司たちの現世主義や拝金主義を批判するような言動をしたりしました。
そのようなわけで、指導者たちはイエスさまが救い主だと認めませんでしたし、それどころか命を奪おうとさえしていました。
パリサイ派の人たちは、ユダヤ人として生まれただけで神の国に入る資格を持っていると教えていました。しかし、イエスさまはご自分のことを救い主だと信じて罪を赦されることがなければ、たとえユダヤ人でも神の国に入れられることはないと教えておられます。

ですから、イエスさまを拒否したほとんどの指導者たちは、招かれていたのに宴会に参加できなかった人たちのように神の国に入ることができなくなってしまいました。
新たに招待された人たち
元々招かれていた人たちの代わりに宴会に参加できた貧しい人たちとは、指導者ではない人たち、すなわち一般民衆です。指導者たちの多くは、民衆のことを自分たちよりも霊的に一段劣った人たちだと考え、心の中で見下していました。しかし、そんな人たちが宴会に、すなわち神の国に招かれました。

確かにイエスさまを救い主だと信じた人たちは、ペテロたちを始めとする民衆で、そのほとんどは貧しい暮らしをしている人たちでした。彼らはイエスさまを救い主だと信じたので、将来神の国が実現したときに復活してそこに住むことができます。
さらに招待された人たち
さらに主人は、あちこちから人々をかき集めてくるようしもべに命じました。この人たちはご近所さんではないため、主人と面識がありません。この人たちが象徴しているのは、ユダヤ人ではない人たち、すなわち異邦人です。

異邦人は聖書の神さまのことを知りません。救い主のことも知りません。しかし、そういう人たちも神の国に入ることができる可能性が与えられました。

イエスさまが十字架にかかり、復活して天に昇り、代わりに聖霊さまが降ってきて教会が誕生しました。それ以来、イエスさまの十字架と復活を信じるだけでユダヤ人でも異邦人でも罪を赦され救われて、将来神の国に入る資格を手に入れることができるようになりました。異邦人が救われるのに、モーセの律法を守ったり割礼を受けたりしてユダヤ人のようにならなくてもかまいません。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神の国への招きにすぐ応答しよう

救いへの招き

神さまはすべての人を神の国に招きたいと願っていらっしゃいます。そして、神の国に入る資格を手に入れるよう招いておられます。
罪の問題
ところが、人間には罪があります。罪とは神さまの存在やすばらしさを否定し、神さまのみこころに逆らうことです。罪があるままでは、神さまに近づくことができません。ですから、神の国に入ることができないのです。
十字架と復活
しかし、たとえ話の主人は宴会の準備が整ってから人々を招きました。それと同じように、私たちが神の国に住む資格を得るのに必要な準備をすべて整えてくださいました。それがイエスさまの十字架と復活です。

イエスさまは十字架にかかられました。それは私たちの身代わりとして私たちの罪の罰を引き受けてくださったということです。そしてイエスさまは死んで葬られ、3日目に復活なさいました。そのことを「これは事実だ」と信じるだけで、私たちの罪は本当に赦され、神さまの子どもにしていただき、将来復活して神の国に入る資格を手に入れることができます。
救いへの招き
私たちを愛し、神の国の祝福を味わわせたいと願ってくださっている神さまは、イエスさまの十字架と復活を信じるよう私たちを招いておられます。もしあなたがまだ十字架と復活を信じて罪の赦しを受け取っておられないなら、今その招き受け入れて信じましょう。

たとえ話で最初に招かれていた人たちのように、さまざまな理由を並べて拒否することがないようにしましょう。

他の人を招く働きへの招き

中通りコミュニティ・チャーチの礼拝に出席しておられる私たちは皆、イエスさまの救いの招きに応答して救いを手に入れたクリスチャンです。先に救われた私たちは、神さまがすべての人が救われて神の国の招きに応じることを望んでおられるということを忘れてはなりません。

たとえの主人のしもべは、主人の命を受けてあちこち走り回って人を集めました。私たちも、他の人に救いのメッセージ、神の国の祝福のメッセージを伝える働きに招かれています。

イザヤが預言者の働きにつくよう神さまから呼びかけられたとき、すぐに応答しました。(イザヤ6:8)私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」

私たちもこの招きに応答しましょう。

救い以外の招き

神の国への招きは、救いへの招きだけではありません。
行ないに応じて与えられる報い
イエスさまの十字架と復活を信じた人には、将来神の国に招き入れられることが保証されています。神の国はイエスさまが支配なさる理想的な王国で、愛と平和と喜びと感動に満ちています。ですから、そこに住めるだけでもものすごい祝福です。

しかし聖書は、神の国に入れられた後、私たちは生きている間に行なったわざに応じて神さまから報酬を受け取ると約束しています。

(マタイ16:27)人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
報い判定の基準
報いが与えられる行ないだったかどうかの判定基準は、
  1. クリスチャンになって以降の言動が、どれだけ神さまに忠実で神さまが喜んでくださるものであったか。
    (マタイ25:21)主人は彼に言った。「よくやった。良い忠実なしもべだ。おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」。
  2. どれだけ神さまの栄光を現すような行ないだったか。
    (第1コリント10:31)「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」。
ということです。

神の栄光を現す行ないとは、私たちの言動を通して、神さまの素晴らしさが、自分にも周りの人にも、今よりももっと分かるようになるということです。
些細な行ないも見過ごされない
しかも、その良い行ないとは、必ずしもみんなが認めるようなすごい行ないでなくてもかまいません。神さまへの愛、そして人への愛に基づいて行なうなら、誰からも認められないような些細な良いわざであっても、神さまは必ず憶えていて報いてくださいます。

(マタイ10:42)まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。
むしろ、人に認めてもらおう、ほめてもらおうとして良い行ないをしても、神さまはそれを認めてくださいません。イエスさまはそのような行為を「偽善」と呼んで嫌われました。
良いわざへの招きに応答しよう
神さまはさまざまな方法で私たちに語りかけてこられます。たとえば聖書を通して、祈りの中で、人の言葉を通して、時には幻など不思議な現象を通して。そして、神の国で報酬をいただけるような生き方へと招いてくださいます。

たとえ話の最初に招かれた人たちのようにあれこれ理由を付けないで、素直にその招きに応答しましょう。

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