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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

放蕩息子のたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ60

ルカによる福音書15章11節〜32節

(2023年12月17日)

放蕩息子のたとえは、イエス・キリストの有名なたとえ話の一つです。何を意味しているのかを解説します。

礼拝メッセージ音声


(聖書朗読は24節までですが、メッセージの中で32節まで解説しています)

参考資料

16節の「いなご豆」(キャロブ)は地中海沿岸原産の豆科植物で、生長すると10メートル以上に育ちます。寒い土地や痩せた土地でも実を結ぶので、古代イスラエルでも各地で栽培されていました。果実は枝に付いたまま乾燥させて家畜の餌にしていましたが、食用にもなります。さやの内側にある果肉に糖分を多く含んでいて、古代では甘味料の代わりに用いられていました。今でもチョコレートやココアの代用品、健康食品の原料などにされています。

イントロダクション

ルカ15章でイエスさまは3つのたとえ話を語ります。
  1. 100匹の羊を持つ羊飼いが、いなくなった1匹を探しに行く話
  2. 10枚のコインを持っている女性が、無くなった1枚を探し回る話
  3. そして今回の放蕩息子の話
私はこれらを「捜しもの三部作」と読んでいます。

特に今回は3つ目の放蕩息子のたとえを取り上げます。ここから私たちに対する神さまの思いを教えていただきましょう。

1.放蕩息子のたとえ

弟息子の家出

遺産を求める弟息子
(11-12節)イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。

弟息子は父親に遺産の分け前を求めました。モーセの律法では、長男は弟たちの2倍を相続すると決められています。この家は息子が2人ですから、弟の取り分は三分の一ということになります。

しかし、当然ながら遺産は父親が亡くなってから相続するものです。生前に財産を分けることもありますが、それは父親が年を取って自分で財産の管理ができなくなってからです。父親がまだ元気に働いているのに遺産をよこせというのは、父親の存在や能力を否定するのと同じひどい侮辱です。

ところが、この父親は弟息子の願いを聞き入れ、財産を分けてやりました。
家出と放蕩
(13節)それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。

遺産を生前贈与された弟息子は、なんと家出をしてしまいました。出て行った先は、異邦人がたくさん住んでいる場所です。そして弟息子は、その財産を使って放蕩三昧の暮らしをします。30節で兄息子が弟について「遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした」と非難していますから、遊女に貢いで遊びほうけたのでしょう。

しかしそんな面白おかしい日々は、永遠には続きませんでした。

弟息子の回心

飢饉
(14節)何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。

父親からどれほどの財産を受け継いだか分かりませんが、当然無尽蔵ではありません。遊んでばかりで浪費を続けていれば、いつか財産がなくなってしまいます。この弟息子もやがて無一文になってしまいました。

しかも、悪いことに飢饉が重なりました。きっと彼は家出先で出会った人たちに助けを求め回ったことでしょうが、飢饉の時にはみんな自分が食べるのに精一杯の状態になります。そんなわけで、誰も弟息子を助けてくれる人がいません。
人生の転落
(15-16節)それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。

助けを求めて探し回った末に、ようやく助けてくれる人が見つかりました。しかし、与えられたのは食べ物ではなく仕事でした。しかも、その仕事は豚の飼育でした。これはユダヤ人にとっては大変屈辱的なことです。それは畜産業が低級でつまらない仕事だという意味ではなく、宗教的な理由によります。

神さまがユダヤ人に与えたモーセの律法では、食べていいきよい動物と食べてはいけない汚れた動物が明確に区別されています。獣の場合には、蹄が分かれていて反芻するものだけ食べていいことになっていました。ユダヤ人にとって、豚は食べられない汚れた動物の代表格です。ですから、ユダヤ人は絶対に豚を食べないどころか、飼育することさえしなかったのです。
しかし、背に腹は代えられません。弟息子は仕方なく豚飼いの仕事を始めました。ところが飢饉ですから、どんなに働いても十分な食べ物を手に入れることができません。そこでいつも空腹に苦しみ、豚の餌でいいから欲しいと願うほどでした。

弟息子は放蕩三昧の挙げ句、ユダヤ人としての誇りだけでなく、今や人間としての誇りさえ失おうとしていました。にもかかわらず豚の餌さえ与えられなかったというのですから、どんなにかみじめな思いをしたことでしょうか。

そして、それは誰のせいでもなく自業自得です。彼はどんなにか自分のこれまでの行動を後悔したことでしょうか。
本来の自分を取り戻す
(17節)しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。

激しい空腹とみじめさと後悔の中で、弟息子は我に返りました。本来の自分はこんなところで空腹に苦しみながら豚と共に寝起きするような暮らしをすべき人間じゃなかったはずだ。そのことを思いだしたのです。

自分が家にいた頃、家族だけでなく雇い人でさえも豊かな食生活が保証されていた。それなのに、自分は父親を傷つけ裏切った挙げ句、飢え死にしそうな暮らしをしている。これは本来の自分ではない。自業自得の苦しみを通して、弟息子はそのことに気づかされました。

そして、ある決断をします。
弟息子の決意
(18-19節)立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』

弟息子は父が住む我が家に帰ることにしました。しかし、今さらもう一度息子として受け入れて欲しいなどという図々しい願いは通じないでしょう。さりとて、父親に受け入れてもらえなければ早晩飢え死にすることは間違いありません。

そこで、雇い人の一人としてでいいから受け入れてほしいとお願いしよう。弟息子はそう考えました。心優しい父なら、きっとそれくらいの願いなら聞いてくれるだろうと考えたのです。

そして、懐かしい我が家に向かってとぼとぼと歩き始めました。

父の対応

熱烈な出迎え
(20節)こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。

父親はまだ遠くにいる人影を見て、「あれは出て行った我が子だ」と気づきました。まだ遠かったのに気づいたということは、おそらくこの父親は毎日畑仕事が終わると息子が出て行った方角を眺め、「今日は帰ってきてくれるだろうか」と待ち続けていたということでしょう。

そして、その姿がボロボロなのを見て哀れに思った父親は、息子が家にたどり着くまで待つことをせず、自分の方から駆け寄りました。

この時の弟息子は、最近まで豚飼いの仕事をしていたのですから、きっと豚の排泄物などの臭いが服や皮膚や髪の毛に染み付いていたでしょうし、体もドロドロに汚れていたことでしょう。しかしこの父親は、そんなことはお構いなしに息子を抱きしめ、キスをしました。それだけ息子が帰ってきたことがうれしかったのです。
反省の弁
(21節)息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』

弟息子は父親に対して反省の弁を述べました。しかし、それはこう言おうとあらかじめ決意していたセリフの半分だけです。「雇い人の一人にしてください」という後半部分は口にしていません。

それは、父親がそれを言う暇を与えなかったからです。
父の恵み深い対応
(22-24節)ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。

父親はしもべたちに命じて、弟息子の身なりを整えさせました。そして、宴会を開こうと言います。子牛1塔を食べるというのですから、かなりの規模の宴会です。宴会を開く理由は、死んでいた息子が生き返ったからだと父は言いました。

そもそもモーセの律法によれば、親を侮辱した人は死刑です。ですから、ユダヤ人が親を捨てて異邦人が住む地域に家出した場合、ユダヤの共同体からは「この人は死んだ」と見なされました。

羊が迷子になった羊飼いやコインをなくした女性のように、この父親も一時的に愛する息子を失いました。しかし、他の2人と同じように息子を見つけ、取り戻すことができました。ですから、他のたとえ話の2人と同様大喜びし、他の人たちと一緒に喜びを分かち合ったのです。

めでたしめでたし。「放蕩息子のたとえ」は、ここまでのストーリーが有名ですが、実はさらに続きがあります。むしろイエスさまが私たちに伝えたいと思っておられるのは、この後の話です。

兄息子の不満と父親の主張

事情を聞く兄息子
(25-27節)ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』

この父親にはもう一人息子がいました。兄息子は弟と違って真面目で、家の仕事をしっかり行なっていました。そして、仕事を終えた兄息子は帰ってきました。すると、宴会のような音が聞こえてきます。

そこでしもべの一人に事情を聞くと、しもべは宴会が行なわれていることとその理由を教えてくれました。
怒る兄息子
(28-30節)すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

しもべの報告を聞いた兄息子はへそを曲げてしまいました。忠実に息子の務めを果たしている自分には何もしてくれないのに、その務めを放棄して放蕩三昧の暮らしをした弟にはこんな宴会まで開く。それはひいきだという思いから、兄息子は怒りを感じたのです。
父の主張
(31-32節)父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」

父親は3つのことを言いました。1つ目と2つ目は、兄息子にはすでにすばらしい祝福が与えられているということです。

1つ目の祝福は、父親といつも一緒にいるということです。弟息子は父の元を離れて初めて、父と共にいるだけでものすごく幸せなことだったということを痛感させられました。兄息子よ、お前はそんな幸せのまっただ中にいて、片時もそれを失ってはいないではないかと父は言うのです。

2つ目の祝福は、父親のものはすべて兄息子のものだということです。12節をもう一度読んでみましょう。「それで、父は財産を二人に分けてやった」と書いてあるではありませんか。兄息子は「父は何にもしてくれない」と不平を鳴らしましたが、父親はすでに財産の三分の二を兄に与えています。

そして3つ目に、先ほど宴会を開く理由で話したように、死んだはずの弟が生き返ったということです。だから喜んで当然じゃないかと父親は言います。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.人の祝福を喜ぼう

神の思いを知ろう

たとえ話のきっかけ
先ほど、この父と兄息子との対話の部分が、イエスさまが最も伝えたかった内容だと申し上げました。それは、放蕩息子のたとえが語られたきっかけになった出来事を見れば分かります。

(1-2節)さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。

パリサイ人や律法学者たちは、汚れた連中を受け入れて食事まで共にするイエスさまの神経が理解できませんでした。そしてイエスさまを非難しました。そこでイエスさまが語られたのが、放蕩息子のたとえを含む「探しもの三部作」のたとえ話です。
3つのたとえ話の共通点
3つのたとえ話に共通しているのは、羊飼いも女性も父親も、大切なものを失ったということと、それを取り戻して他の人たちと一緒に大喜びしていることです。神さまも大切なものを取り戻して喜ぶ人たちと同じです。

人が罪を犯したとき、神さまと人間は断絶状態になりました。神さまからすれば大切な人間が神さまの手から失われてしまった状態です。そして、そんな罪人の一人が悔い改めて神さまの元に帰ってくるなら、神さまも神さまに仕える天使たちも大喜びします。どんな人のことも神さまは大切に思ってくださっているからです。
放蕩息子のたとえだけの内容
そして放蕩息子のたとえにだけ、追加のエピソードが添えられています。喜んでいる父親に文句を付ける兄息子の話です。この兄息子が象徴しているのは、イエスさまに文句を付けたパリサイ人や律法学者たちです。

彼らは神さまの言葉である聖書に精通していました。ですから、神さまのみこころを一般民衆以上に知っていなければなりませんし、彼ら自身も知っていると自負していました。

神さまのみこころの一つは、罪人が悔い改めてご自分の元に帰ってくることを神さまは喜ばれるということです。そのことを、当然パリサイ人たちは知っていなければなりません。そして人の罪を赦すために来られた救い主イエスさまが、罪人が話を聴きに来るのを喜ばれることも当然知っていなければなりません。ですからパリサイ人たちは、イエスさまに文句を付けるどころか一緒にこの状況を喜ばなければならなかったはずです。

そんな彼らの間違いを指摘するために、イエスさまは探しもの三部作を語られ、特に放蕩息子のたとえの中に文句を言う兄息子を登場させました。そして、「一緒に喜んでおくれ」と暗に訴えておられます。

イエスさまは私たちにも、神さまはご自分が人の救いを強く強く願っておられるということを知ってほしいと願っておられます。

嫉妬心に気づいて捨てよう

聖書の中に次のような命令があります。(ローマ12:15)喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。

泣く人たちと一緒に泣くことはそれほど難しいことではないかもしれません。しかし、大いに祝福されて喜んでいる人と一緒に素直に喜べないことがあります。そんなときには、嫉妬心が私たちの心の中に芽生えていないかチェックしましょう。

この話をお読みください。
オスカー・ワイルドがこんな物語を書きました。

悪魔が砂漠に住む聖なる隠者の所にやって来ました。すると、手下どもが一生懸命彼を誘惑していました。手下どもは、隠者を肉欲で誘惑しようとあの手この手を使っていましたが、隠者は決して揺るがされず、それらをすべて払いのけていました。

悪魔はあきれて言いました。「お前たちのやり方は露骨過ぎるんだよ。どれ、任せてごらん」。悪魔は隠者の耳元にそっとささやきました。「あの兄弟がアレキサンドリアの司教になったそうだね」。すると、穏やかな隠者の顔が、見る見る嫉妬にゆがみ始めました。悪魔は手下どもに言いました。「な? この手に限るんだよ」。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
自分が嫉妬心の故に他人の幸せを喜べないのだということに気づいたなら、神さまに告白して「嫉妬心を捨てます」と宣言し、聖霊さまがその力を与えてくださるよう祈りましょう。

自分に与えられている祝福を数え上げよう

放蕩息子の兄は、自分にすでに与えられている祝福に気づかなかったため、弟をうらやみふてくされました。そんな兄息子に、父親は「お前はすでにすばらしい祝福の中にいる」と訴えかけました。

私たちはイエスさまの十字架と復活を信じたことにより、あの弟息子のように神さまによって赦され、愛の交わりを回復していただきました。私たちはただ単に罪を赦されただけでなく、神さまの子どもとして愛され、守り導かれています。

私たちは、自分に与えられていないものを数え上げて不満を抱えるのではなく、すでに与えられているものを数え上げて感謝しましょう。
この話をお読みください。
知人のAさんから、同じ教会で最近洗礼を受けたBさんの話をうかがいました。

先日、Bさんは所属教会が月に一度行なっている徹夜祈祷会に、初めて参加なさいました。そもそも祈祷会というものが初めてで、一体どう祈ったら良いかも分からなかったそうです。でも、とにかく一生懸命お祈りなさいました。

さて、AさんはBさんのすぐ隣で祈っていましたから、聞くとはなしにBさんの祈りが耳に入ってきました。Bさんは一生懸命に「○○を感謝します」「△△を感謝します」「◇◇を感謝します」「☆☆を感謝します」……と、次々と感謝をささげておられたそうです。

Aさんはこの祈りに大変感動なさいました。自分はついつい「神さま、祝福してください」「助けてください」「あーしてください」「こーしてください」という、お願いの祈りばかりをしてしまうのに、洗礼を受けたばかりのBさんが、しかも祈祷会に初めて出席なさったBさんが、祈り方もまだよく分からないとおっしゃっていたBさんが、日常生活のこまごまとしたことに至るまで、一つ一つ感謝をささげておられる。すごいなあ!

Aさんの素晴らしいのは、Bさんから学んだことを即実践なさったことです。ご自分もお願いの祈りを少し減らして、何でもかんでもとにかく感謝することになさいました。当然のことながら、Aさんの毎日の生活は、以前よりもさらに祝福と喜びに満たされたものになってきました。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちの心が、嫉妬ではなく感謝と喜びに満たされますように。

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