(2023年12月24日)
クリスマスはイエス・キリストの誕生記念日です。キリストが地上に来た理由は何でしょうか?
礼拝メッセージ音声
イントロダクション
クリスマスは、神のひとり子であるイエス・キリストが人間となって地上に来られた記念日です。
- イエスさまの誕生日は分かっていません。キリスト教がローマ帝国に公認されてから、冬至の祭りが行なわれていた12月25日がキリスト誕生の「記念日」として祝われるようになりました。
なぜ大昔に中東で生まれた人の誕生日を、全世界の人がお祝いするのでしょうか。それは、イエスというお方が私たち人間にすばらしいものを与えてくださったからです。今日は、イエスさまがこの世に遣わされたのはなぜかというお話をします。。
1.永遠のいのちを与えるため
(9節)神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
いのちはエネルギーに満ちている
イエスさまは私たちにいのちを与えるため地上に生まれてくださいました。そのいのちとは、何十年かで終わってしまう肉体的ないのちではなく、永遠に続く霊的ないのちです。そのいのちにはどんな特徴があるでしょうか。
まず、いのちはエネルギーに満ちています。
神さまは、問題の全くないバラ色の人生を約束はしておられません。たとえ神さまを信じていたとしても、私たちが生きているとさまざまな問題にぶつかります。
しかし、イエスさまによっていのちを与えられた人は、問題にぶつかってもそれを乗り越え、あるいは問題を祝福に変えることができます。
いのちは良いものを生み出す
また、いのちは良いものを生み出します。
生きている画家はすばらしい絵を生み出します。生きている職人はすばらしい道具を生み出します。そして、生きている母親はすばらしい命を生み出します。しかし、死んでいる人は何も生み出すことができません。
イエスさまによっていのちが与えられた人は、良い行ないや良い言葉を生み出し、それによってこの世に価値あるものを生み出していきます。周りの人たちを慰め、励ましていきます。そして、自分の人生を価値あるものに造り変えていきます。
いのちは成長する
そして、いのちは成長します。
いくら年を取っても、生きている限り人は成長していきます。
イエスさまによっていのちが与えられた人は、必ずその人格が変化、成長します。以前はできなかったことができるようになります。あるいは以前はやめたくてもやめられなかったことがやめられるようになります。
2.なだめのささげ物となるため
(10節) 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
怒りと敵対
先ほど、 神さまがイエスさまを通して私たちにすばらしいいのちを与えてくださると申し上げました。しかし、本来私たち人間は神さまから良いものをいただく資格がありませんでした。それは神さまと私たちが敵対関係にあったからです。
10節に「宥め」(なだめ)という言葉が使われています。この言葉の前提は、相手がこちらに対して怒りを覚えているということです。ささげ物は神さまにささげるものですから、この場合怒りを覚えているのは神さまであり、怒りの対象は私たち人間です。
それは私たちに罪があるせいです。罪とは、神さまの要求する基準に到達していないことです。私たちは不完全であって、神さまの悲しまれるようなことを考えてしまったり、実際に行なってしまったりしますし、神さまがして欲しいと思われることをできなかったりします。
それどころか、神さまに従おうとせず、自分の好きなことを、好きなときに、好きなように行ないたいと願っています。そのくせ、困ったときには自分の願うとおりに助けて欲しいと思います。神さまを神として敬わず、まるで奴隷のように扱っているのです。
この自己中心が罪です。罪は神さまへの反逆であり侮辱ですから、本来なら神さまの怒りによって、いのちという祝福どころか永遠の苦しみというひどい刑罰を招くはずでした。
十字架と赦し
しかし、イエスさまはなだめのささげ物になるため地上に生まれてくださいました。すなわち、私たちの罪に対する神さまの怒りを鎮め、さばきが私たちに下らないようにするために来られたのです。
そして、神さまの愛、神さまからの祝福が、何の妨げもなく私たちに注がれるようにしてくださいました。すべての祝福、幸せは神さまから来ます。その神さまとの関係が、イエスさまによって回復したのです。
ではどのようにしてイエスさまは、私たちと神さまとの関係を回復したのでしょうか。それは、十字架の死です。イエスさまが十字架にかかって死なれたのは、時の権力者たちに憎まれて抹殺されたというだけではありません。それは、私たちの身代わりの死です。本来、私たちが受けるべきであった罪の呪いを、イエスさまが代わりに引き受けてくださいました。
そして、イエスさまは死んで3日目に復活なさいました。イエスさまは罪と死の力に勝利なさったのです。
その結果、もはや神さまの怒り、罪の刑罰は私たちに向けられることはなくなりました。私たちの罪は、イエスさまによってすべて赦され、私たちは堂々と神さまと交わり、神さまからの祝福、幸せな人生、第一のポイントで学んだようないのちに満ちた人生を味わうことができるようになりました。
恵みと信仰
イエスさまによる新しい人生を味わうためにはどうしたらいいのでしょうか。特別な修行が必要でしょうか。それとも一定の献金が必要でしょうか。何かすごいことをしなければならないのでしょうか。
いいえ。神さまがくださる罪の赦しは、私たちの良い行ないのごほうびとして与えられるのではありません。それは恵み、すなわち一方的なプレゼントとして与えられます。私たちがすべきことは次のことを信じるだけです。
それは、「この自分の罪を赦すためにイエスさまは十字架にかかられたこと、死んで葬られたけれど3日目に復活なさった」ということです。このことが真実だと信じるだけで、私たちは本当にすべての罪を赦され、神さまと仲良しになり、神さまから永遠に続くいのちというすばらしい祝福をいただくことができます。
あなたがクリスチャンなら、人生のある日ある時、それを信じ、告白したはずです。これからもますますその信仰を深め、強めていきましょう。まだそのように信じ、告白したことがないという方は、今信じませんか?
もし自分もイエスさまによって罪を赦され、いのちを与えられたいと思われたなら、神さまにこう祈ってください。
「神さま。私はこれまであなたに従わないで、自分勝手な生き方をしてきました。申し訳ありませんでした。しかし、イエスさまが十字架にかかられたことによって、私のその罪はすべて赦されました。そして、イエスさまは死んで葬られましたが、3日目に復活なさり今も生きておられます。私はそのことを信じます。イエスさまのお名前によって祈ります。アーメン」。
- もしこのサイトの読者でこの祈りを初めてささげたという方がいらっしゃったら、ぜひメールをください。祝福を祈らせていただきます。
「アーメン」とは、「その通りです」「今祈ったことは本当です」という意味です。この祈りをなさったのなら、たとえ今日初めて聖書を読んだという方であってもクリスチャンです。永遠のいのちが与えられた神さまの子どもです。
3.私たちが愛し合うため
(11節)愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
べき
聖書は、私たちがお互いに愛し合う「べき」であると言っています。イエスさまによって救われ、罪を赦され、永遠に続くすばらしいいのちが与えられた私たちは、お互いに愛し合わなければならないと言われています。
この「べき」という言葉は、借金の返済義務があるというようなときに用いる、大変強い意味の言葉です。してもしなくてもいいというオプションではなくて、必ずしなければならないことだ、ということです。
愛する理由
しかし、それは単なる義務ではありません。理由が添えられています。神さまがそんなにもあなたを愛してくださったのだから、というのがその理由です。
神さまの愛はどんな愛でしたか? 敵を赦し、祝福する愛です。イエスさまはそのために、犠牲を払ってくださいました。私たちを愛し、祝福するために、ご自分のいのちさえ差し出されました。誰のためですか? この私のためです。そして、あなたのためです。
その神さまの愛、イエスさまの犠牲を思うとき、私たちもまた、他の人を赦し、愛することができるのではないか? ヨハネはそう私たちに問いかけているのです。イエスさまの愛を深く知り、感動し、感謝すればするほど、他の人を赦し、愛しやすくなります。
神さまがまず私たちを愛してくださいました。だから私たちも他の人を愛するのです。赦すのです。親切にするのです。励ますのです。信じるのです。優しい言葉をかけるのです。
そうは言っても、どうしても赦せない相手がいるかもしれません。大切にできない人がいるかもしれません。それだけ、あなたはその人によってつらい思いをしてきたのでしょう。もしそうなら、聖書を読み、神さまがどんなにあなたのことを愛しておられるかを黙想してみてください。
愛を世界に広げていこう
イエスさまを通して神さまの愛を知った私たちは、他の人を愛し始めましょう。小さな私たちに、世の中のすべての問題を解決することなどできません。しかし、私たちの周りに小さな愛を示していくならば、この世界はほんの少し良くなります。そして、一人ひとりがそれを実践するならば、世界は良い方向に変わっていくでしょう。
この話のお読みください。
学校の先生がクラスの生徒に、リボンを1本1本渡して言いました。「そのリボンを自分に良い影響を与えてくれた大切な人にプレゼントしてください。そうすることで世界を少しだけ良い方向に変えることができます。そしてプレゼントする際、今私が言った通りのことをその人に伝えてください」。
つまり、リボンが次々と人の手に渡り続け、そのたびに少しだけ世界が良い方向に変わるというのです。そのうちの1本のリボンが、次のような旅を経験しました。
生徒の一人が、自分の先輩にリボンを渡しました。この人は進路に関して良いアドバイスをしてくれたからです。感激したその先輩は職場の上司にリボンを渡しました。この上司は生徒の先輩を熱心に指導してくれているからです。
リボンを受け取って感激した上司は、家に帰ると息子の部屋に向かいました。この息子は反抗期で、2人の関係はあまり良くありません。それでもこの上司は息子にリボンを手渡して言いました。
「このリボンを、自分に良い影響を与えてくれた大切な人にプレゼントするよう言われて手渡されたんだ。それを私はお前に受け取ってもらいたい。お父さんはお前にいつも口うるさいことを言うけれど、お父さんの人生を一番豊かにしてくれているのは、お母さんを除けばお前なんだよ。お父さんとお母さんの元に生まれてきてくれてありがとう。愛しているよ」。
すると息子はポロポロと涙を流して言いました。「実はさっき遺書を書き終えたところだったんだ。今夜遅くに死のうと思って。だってお父さんが僕のことを愛してくれているって分からなくて、ずっとつらかったから。でも、もう遺書は必要ないね」。そして、2人は泣きながら抱き合いました。こうして世界がほんのちょっとだけ、良い方向に変わりました。
聖書には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16)と書かれています。「世」とはあなたのことです。神さまの愛を受け取ったあなたは、その愛のリボンを次の人に手渡してください。
中東の小さな国、イスラエルにイエスさまが愛の炎をともされました。その愛の炎は一握りの弟子たちの心に愛の火をともしました。そして、弟子たちを通してイスラエル中に、そしてローマ帝国中に愛の炎が広がっていき、やがて回り回ってこの極東アジアの島国にも届けられました。
今度は私たちが他の人に愛の火を届ける番です。この後行なうキャンドルライトサービスは、その決意を表しています。