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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

枯れたいちじくの木

イエス・キリストの生涯シリーズ77

マルコによる福音書11章12節〜25節

(2024年5月5日)

イエス・キリストが実を結ばないいちじくの木を呪って枯らしてしまったエピソードと2回目の宮きよめのエピソードです。イエスはこれらの出来事を通して何を教えようとなさったのでしょうか。

礼拝メッセージ音声

参考資料

12節の「翌日」は、エルサレム入城の翌日、すなわち月曜日。いちじくの木が枯れたのはさらに翌日の火曜日です。

13節の「いちじくのなる季節」は6月から8月です。この夏の時期に取れるいちじくの実をヘブル語でテエナと言います。
当時のイスラエルで栽培されていたいちじくは、過越の祭りが行なわれる3月末から4月上旬に葉が茂り、その直前枝に緑色の実ができます。イザヤ28:4で「夏前の初なりのいちじくの実」と呼ばれているものです。この春にできる実のことをテエナと区別してパーグと呼びます。
春の実であるパーグは5月には落ちてしまい、その後に夏の実であるテエナが出てきて熟し始めます。
  • ちなみにエルサレムとオリーブ山を挟んで反対側にあった2つの村の名、ベタニアは「テエナの家」、ベテパゲは「パーグの家」という意味です。
春の実バーグは夏の実テエナほど甘くないため商品価値はありませんが、食べることはできました。そこで農夫が摘んで食べたほか、旅人などが自由に取って食べていいことになっていました。

15節の「鳩」は、貧しい人たちが羊や牛の代わりにいけにえとしてささげました(レビ5:7など)。

17節は、イザヤ56:7からの引用です。また「強盗の巣」という表現は、イザヤ7:11が元になっています。
(イザヤ7:11:7)わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目に強盗の巣と見えたのか。見よ、このわたしもそう見ていた──【主】のことば──。

19節の「都の外」は、オリーブ山のこと。
(ルカ21:37)こうしてイエスは、昼は宮で教え、夜は外に出てオリーブという山で過ごされた。

イントロダクション

自分が神さまに喜ばれているという確信を得られれば、私たちはこの地上を力強く生きていくことが可能です。どんな困難が行く手を遮っても、全知全能の神さまが味方に付いていてくださるわけですから、恐れる必要も意気消沈してあきらめる必要ありませんね。

今日は、イエスさまがいちじくの木を枯らされたエピソードと、2度目の宮きよめのエピソードから、神さまが喜ばれる私たちの生き方について教えていただきましょう。

1.いちじくと神殿

実を結ばないいちじくの木への呪い

空腹を覚えるイエス
(12節)翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。

エルサレムに入城なさった日、イエスさまはラザロ・マルタ・マリアの兄弟が住むベタニア村に戻って一泊なさいました。そして翌日またエルサレムに向かわれます。

この時空腹だったということですが、もしかしたら断食をしていらっしゃったのかもしれません。
実が実っていないいちじく
(13節)葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。

エルサレムの手前にあるオリーブ山の中に、いちじくが生えていました。遠くからでも見えるほど豊かに葉を茂らせていました。時期としては今の暦だと4月上旬なので、6月から8月に行なわれるいちじくの実の収穫時期ではありません。

しかし、当時イスラエルで栽培されていたいちじくは、葉を茂らせる直前に緑色の実(ヘブル語でパーグ)を枝にならせます。そして、このパーグは売り物にならないため、農夫が食べました。

また、パーグは旅人なども自由に摘んで食べていいことになっていましたから、イエスさまはそのパーグを食べようと思っていちじくの木に近づかれたわけです。ところが、その木には葉が茂るばかりでまったく実が付いていませんでした。
いちじくの木への呪い
(14節)するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。

葉っぱ以外何も付けていないいちじくの木に向かって、イエスさまは「今後、誰もお前の実を食べないように」という呪いの言葉を投げかけました。後で分かりますが、この呪いの言葉はいちじくの木が根こそぎ枯れてしまったことによって実現します。

二度目の宮きよめ

神殿での大暴れ
(15節)こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。

エルサレム神殿に着くと、イエスさまは商売人や両替人たちを追い払ったり、商売のための台や腰掛けを倒したりなさいました。いわゆる「宮きよめ」と呼ばれる行為です。これが起こったのは紀元30年の4月ですが、イエスさまは3年前の紀元27年の春にも宮きよめを行なわれました(ヨハネ2:13-22。こちらの記事参照)。

ですから、今回のは2回目の宮きよめです。イエスさまは公の生涯の最初と最後に神殿をきよめられました。
「売り買いしている者たち」とは、特に神殿でささげるいけにえの動物を売っている人たちです。「鳩」は貧しい人たちが羊や牛の代わりにいけにえにささげたものです。

ところで、いけにえにささげる動物は種類が決まっているほか、傷の無いものでなければなりませんでした(レビ1:3など)。ガリラヤなど遠方から羊や牛をエルサレムに連れてきた場合、途中で怪我をさせてしまうといけにえとしてささげられません。そこで、礼拝者の利便のために神殿でいけにえ用の動物が売られるようになりました。

そしてこの商売は、大祭司が取り仕切っていました。大祭司の配下であるいけにえ検査官は、外から連れてきた動物については何かしらの理由を付けていけにえには不適格という烙印を押し、結果的に神殿で販売している動物しかいけにえに使えないようにしてしまいました。そして、法外な値段でいけにえ用の動物が売られるようになります。

また、いけにえを買うためのお金や、ユダヤ人の成人男性が毎年支払う神殿税については、異邦人も使う通常のコインではダメで、神殿用の特別なコインを使わなければならないという規則を作りました。そして、神殿用コインを両替するのにこれまた法外な手数料を取ったのです。

そして、いけにえの動物や両替を通じて得られた利益の多くは、大祭司一族の懐を潤していました。

大祭司や彼に従う者たちは、礼拝という神聖な行為を商売の手段にし、その結果礼拝するために神殿にやってきた人たちに無用な負担を掛けています。そのことに対してイエスさまは怒りを表されました。これが宮きよめが行なわれた理由です。
神殿の通過を禁じる
(16節)また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。

神殿の北と南を行き来したり、神殿の東側にある門から町を出入りしたりするのに、神殿の中を通過するとショートカットになって便利です。しかし、商売などで荷物を運ぶのに神殿を通ってはならないとイエスさまはおっしゃいました。荷物を運びたければ神殿を通らない別の道や別の門を使えということです。

なぜなら、神殿はあくまでも礼拝のための場所だからです。このエピソードも、神殿が礼拝の場所として尊重されていない現状に、イエスさまが怒りを表されたことを示しています。
怒りの言葉
(17節)そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」

イエスさまは、イザヤ56:7とイザヤ7:11の言葉を用いて、今の神殿が祈りの家ではなくなってしまっている現状を指摘なさいました。これでは強盗のアジトと一緒ではないかと。
殺意を募らせる指導者たち
(18節)祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。

神殿での商売を邪魔して、神殿を強盗の巣と呼ぶことは、大祭司の権威に真っ向から逆らう行為です。そして、エルサレムの民衆はイエスさまの力強い教えに心を奪われていました。このままでは、大祭司を中心としたイスラエルの宗教的・政治的秩序が脅かされかねません。

そこで、指導者たちはイエスさまのことを亡き者にしたいと思いました。ところが、多くの人々がイエスさまのことを、救い主かどうかは別として少なくとも預言者であるとは思っていました。

もしも、預言者を殺したとなれば、民衆の怒りが自分たちに向いてしまうかもしれません。そして、反乱が起これば自分たちの身が危うくなるばかりか、鎮圧のためにローマ帝国による介入を受けて、国そのものが滅ぼされてしまいかねません。そこで、指導者たちはイエスさまに対して怒りを覚えながら何もできないでいました。
町の外に出るイエス一行
(19節)夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。

参考資料にも書きましたが、夕方になるとイエスさまたちはエルサレムを出て、オリーブ山で野宿をなさいました。

枯れたいちじくの木

枯れたいちじくの発見
(20-21節)さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」

日が変わって火曜日です。弟子たちは、いちじくの木が根本から枯れているのを発見しました。ペテロはその木が、昨日イエスさまの呪われた木だということを思い出して、そのことを指摘します。
イエスによる教訓
(22節)イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。

イエスさまは弟子たちに、枯れたいちじくの木から教訓を語り始めます。それは神さまに対する信仰についての教えです。神さまに対する信仰とは、愛や力に満ちておられる神さまを全面的に信頼するということです。
信仰の力
(23節)まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。

これはイエスさまお得意の誇張表現です。それくらい、神さまに対する信仰には力があるということを教えておられます。
信仰による祈り
(24節)ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

神さまに対する信仰の例として、イエスさまは祈る際の態度について教えます。それは、神さまに祈り求めたならば、それがすでにかなえられたと信じるということです。

神さまは全知全能であり、不可能が何一つありません。しかも私たちを愛してくださっています。ですから、最高のものを何があっても私たちに与えてくださるはずです。私たちがそのように神さまのことを信頼して「必ず与えられる」と信じて祈るなら、それは与えられます。

そこで、祈り求めたものは「すでに与えられた」と信じなさい。イエスさまはそう弟子たちに語られました。

ただし、それは私たちが祈り求めたら、絶対に求めたとおりに実現するという意味ではありません。特にこういう箇所は、他の同様のテーマの箇所と見比べながら意味を判断しなければなりません。聖書の別の箇所を2つ挙げます。

(ヨハネ15:7)あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

(第1ヨハネ5:14-15)何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。

絶対にかなう祈りというのは、神さまのみこころにかなう願いから出てくるものだということが分かります。そして、神さまのみこころは神さまのみことば、すなわち聖書の言葉によって知ることができます。

もちろん、私たちは有限な存在ですから、永遠を見通しておられる神さまのみこころ、ご計画をすべて知ることはできません。しかし、「神さまのみこころが実現しますように」という思いで祈るならば、仮に祈ったことそれ自体が実現しなかったとしても、神さまはもっと素晴らしいものをくださいます。

神さまは全知全能であり、愛に満ちたお方だから、私に対して最高のことをしてくださるという信頼、すなわち信仰を持って祈ろう。そして、祈ったらすでに神さまは答えをくださっているのと同じだと信じよう。イエスさまはそのように当時の弟子たちを、そして今の私たちを励ましておられます。
赦しなさい
(25節)また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」

当時のユダヤ人が祈るときには、一般的には立ち上がって祈りました。その時には他人に対する恨みを捨てて、その人を赦してから祈るようにとイエスさまはおっしゃいました。そうすれば父なる神さまもあなたの過ちを赦してくださると。

ただしこれは、赦さない人の罪は赦されないという意味ではありません。私たちの救い、すなわち罪の赦しは私たちの行ないによってもたらされるものではありません。神さまの一方的な恵みの故に、イエスさまの十字架と復活を信じる信仰によって与えられました。

(エペソ2:8)この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。

イエスさまの十字架と復活を信じた私たちは、神さまによってすでに赦されています。その感動、喜びが他の人の過ちを赦す原動力になります。たとえば、聖書の別の箇所に次のように書かれています。

(コロサイ3:13)互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神さまへの真実の信仰を育てよう

枯れたいちじくの木が表しているもの

イエスさまが、葉っぱを豊かに茂らせていたのに何も実らせていなかったいちじくの木を呪ったのは、おなかがすいていてイライラしていたからではありません。このいちじくは、当時のイスラエルの国を象徴しています。

旧約聖書の預言者は、いちじくの木をイスラエルの象徴として用いました。たとえば、
(エレミヤ8:13)わたしは彼らを刈り入れたい。──【主】のことば──しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれらをそのままにしておく。』」

葉ばかり茂って実を結ばないいちじくは、まるで当時のイスラエル、特にエルサレムの人々のようでした。

エルサレムは立派な城壁で囲まれ、その中には壮麗な神殿があります。神殿では、きれいな装束に身を包んだ祭司たちがたくさん働き、毎日多くの人々が神殿にやってきてたくさんの動物犠牲がささげられていました。実に宗教的な町です。

しかし、そこには神さまが喜ばれるような信仰の実態はありませんでした。
  • 神殿では、神さまへの真実の礼拝ではなくお金儲けが優先されていました。
  • 指導者たちは自分たちが尊敬され、ほめられることを求めて、偽善的な礼拝行為や施しなどを行なっていました。
  • 民衆たちは自分の頭で考えることをせず、ただ指導者たちの教えを鵜呑みにして、イエスさまのことを救い主だと認めようとしませんでした。
そんなエルサレムの現状を神さまは嘆いておられるということを弟子たちに教えるため、イエスさまは実を結ばないいちじくの木を枯らされたのです。

私たちに求められているもの

神さまは表面的な敬虔さではなく、神さまに対する真実の信仰、すなわち真実の信頼や愛や感謝の思いを求めていらっしゃいます。
  • 私たちの教会がどんなに立派な会堂を建てたとしても、私たちが神さまへの信頼や愛や感謝を失っていたら意味がありません。
  • 私たちの教会の礼拝で、どんなにすばらしい賛美歌が演奏され、歌われたとしても、私たちが神さまへの信頼や愛や感謝を失った状態で、単に音楽を楽しむだけになっていたとしたら意味がありません。
  • 私たちの教会が、どんなに世間に認められるような社会奉仕活動を行なっていたとしても、それが神さまへの信頼や愛や感謝から出たものではなく、見栄やさばきに対する恐れから出たものなら意味がありません。
  • 私たちの教会が、どれほど長い時間祈ろうとも、断食を繰り返そうとも、それが神さまへの信頼や愛や感謝に基づいたものでないなら意味がありません。
私たちの生活は、神さまが喜ばれる信仰を反映していたでしょうか。

信仰を常に育てていこう

自分は枯らされてしまったいちじくの木のようだと思われた方。どうか安心してください。聖書の神さまは、愛と恵みに満ちあふれていらっしゃいます。神さまの愛と恵みは、イエスさまの十字架と復活によってはっきりと示されています。

私たちの信仰は完全でしょうか。いいえ。どこまで行っても不完全です。しかし、そんな私たちを神さまは赦してくださいます。
罪の赦し
イエスさまが十字架にかかり、私たちに注がれるはずだった罪の罰をすべて身代わりに引き受けてくださったからです。そしてイエスさまは、死んで葬られますが、3日目に復活なさいます。それによって、本来罪人として、すなわち神さまにとって敵として生まれた私たちが、神さまの愛する子どもとして新しく生まれました。

そのことを信じた私たちのことを、神さまは決して罪に定めて滅ぼしたりなさいません。私たちはあのいちじくの木のように根こそぎ枯らされるということはないのです。

ですから、自分の信仰は不完全だったなぁ。表面ばかり取り繕うものだったなぁと思われた方。赦されていることを再確認して、そこから神さまが喜ばれる信仰、すなわち真実の信頼、真実の愛、真実の感謝を目指していきましょう。
聖霊の助け
しかも、私たちはそれを自分一人の努力によって達成するわけではありません。私たちクリスチャン一人ひとりの内には、聖霊なる神さまが住んでいてくださいます。そして、日々イエスさまに似た者になるよう造り変えてくださっています。その聖霊さまが、私に、そして皆さんに、真実の信頼、真実の愛、真実の感謝を持ち、それを育てていけるよう助けてくださいます。
祈りと宣言と感謝
祈りましょう。私たちが神さまの喜ばれる信仰を持つことができるように、そしてそれを聖霊なる神さまが助けてくださるように。

祈ったらどうするんでしたっけ? 今回の箇所でイエスさまは何とおっしゃいましたか? そうです。その祈りはすでにかなえられたと信じましょう。すなわち「そうなったと信じます」と宣言して「祈りを聞いてくださってありがとうございます」と感謝しましょう。

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