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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ヤイロの娘

聖書の女性シリーズ23

マルコによる福音書5章35節〜43節

(2021年12月12日)

会堂司ヤイロの娘は病気で死んでしまいましたが、イエス・キリストによってよみがえりました。私たちもキリストの大きな力を体験することができます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

35節の「会堂司」は、会堂(シナゴーグ)の管理者です。会堂とは、元々はバビロンによって神殿が破壊され、ユダヤ人たちがバビロンの都に捕囚された際、礼拝や律法教育、また地域の行事のため設けられた場所のことです。また、そこに集う人々の共同体のことも指します。会堂司はその会堂に属する長老たちが輪番制で担当し、建物の管理の他、礼拝が伝統通りに行なわれるよう監督しました。

41節の 「タリタ、クム」は、アラム語です。タリタが娘という意味、クムが起きる・立つの命令形です。ユダヤ人は元々はヘブル語を話していましたが、アッシリアやバビロンによって捕囚された結果、彼らがしゃべっていたアラム語を、ユダヤ人も日常では使うようになりました。アラム語の発音は、口語訳や新改訳第3版のように「タリタ、クミ」に近いですが、この箇所のギリシア語が「タリタ、クム」と音訳しているので、新改訳2017や新共同訳ではこのように訳してあります。

イントロダクション

今回の主人公であるヤイロの娘は、死んでいたのによみがえりました。彼女はイエスさまの大きな力を体験したのです。私たちも「昔こういうことがあった」とか「外国のどこそこでこういう奇跡が起こったらしい」とかいう伝聞ではなく、イエスさまの力を実際の生活の中で体験したいですね。今回の箇所を通して、そのために必要なことを教えていただきましょう。

1.ヤイロの娘のよみがえり

今回も、前半は1節1節解説していくスタイルを取ります。

娘の死

5:35 イエスがまだ話しておられるとき、会堂司の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」

このときヤイロという人の12歳の娘が死にかけていました。おそらく病気にかかったのでしょう。ヤイロはイエスさまの元に来て、次のようにお願いしました。「私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください」(23節)。

このヤイロは会堂司、すなわち会堂の管理者ですが、おそらくカペナウムの人だろうと思われます。イエスさまは彼と一緒に家に向かわれました。
長血の女
その途中、イエスさまは突然立ち止まってあたりを見回し始めました。そして「誰かが触った」と言い出しました。弟子が「群衆が押し合いへし合いしているのですから、誰かが触ったとおっしゃっても」と言っても、それでもイエスさまは動こうとしません。そのうち女性が現れて、自分が触ったと白状しました。そして身の上話を始めました。
  • この女性のいやしについては前回取り上げました。
人が過去の苦しかった身の上を語る場合、1分や2分で済むはずがありません(少なくとも私はそんな短い身の上話を聴いたことがありません)。長々と自分の体験を語る女性と、それを咎めもせずじっと聞いているイエスさま。ヤイロはどんな気持ちでそれを眺めていたことでしょうか。心の中で「あんたはすでにいやされたんだからいいじゃない! こっちは娘が死にかけてるんだよ!」と叫び、やきもきしていたことでしょう。

案の定手遅れでした。娘が死んだという知らせがヤイロの元に届きました。
励ましの言葉
5:36 イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

絶望に打ちひしがれるヤイロに向かって、イエスさまは励ましの言葉を投げかけました。人間的に見ればもう手遅れですが、イエスさまにとってはそうではありません。イエスさまの励ましは、ただの気休めではありません。

ヤイロは知らなかったでしょうが、イエスさまはナインという村で死んだ青年をよみがえらせたことがあります。イエスさまは死さえも支配しておられます。ですから、この励ましは確かな希望に裏付けられていました。

ヤイロの家に到着

5:37 イエスは、ペテロとヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分と一緒に行くのをお許しにならなかった。

イエスさまはようやくヤイロの家に移動を始められました。ルカによる福音書では「イエスは家に着いたが、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、そしてその子の父と母のほかは、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった」(ルカ8:51)と書かれています。ですから、家の近くまでは群衆たちと一緒に移動し、家に着いた段階でペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人だけを選抜して中に入られたのでしょう。

この3人は弟子たちの中でも特にイエスさまのそばで活動しました。イエスさまがヘルモン山に登って栄光の姿に変わったときも、この3人だけが一緒に山を登ることを許されました。また、ゲツセマネの園で祈られたときも、最も近くにいたがこの3人でした。
大騒ぎ
5:38 彼らは会堂司の家に着いた。イエスは、人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのを見て、

家では娘が亡くなったために、家族や近所の人たちが取り乱していました。また、この当時人が死ぬと、泣き女と呼ばれる人たちがやってきて大声を上げて泣きましたが、そうやって死んだ人が家族や周りの人たちに敬愛されていたのだということを表すわけです。その泣き女たちもすでに来ていて、泣きわめいていました。大騒ぎの状況です。

5:39 中に入って、彼らにこう言われた。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」

人々が取り乱したり泣きわめいたりしているのは、娘が死んだのですから当然のことです。しかし、イエスさまはそれを咎めました。そして、その子は眠っているだけで死んでいないとおっしゃいました。

聖書でも日本語でも、死ぬことを眠ると表現します。ただし、イエスさまはただ単に、「死ぬ」の婉曲表現として「眠る」と表現なさったわけではありません。寝ていた人がやがて目を覚まして起き上がるように、この娘も間もなく目を覚まして起き上がるのでそう表現なさったのです。

間もなく娘はよみがえるのですから、家族や町の人々は嘆き悲しみ、大騒ぎをする必要がありません。ですからイエスさまは、「どうして取り乱したり、泣いたりしているのか」とおっしゃいました。
あざ笑う人々を無視
5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれた。

人々はイエスさまが死人をよみがえらせるなどとは夢にも思わず、事情を知らない癖にとあざ笑いました。旧約聖書の中には、預言者エリヤやエリシャが死んだ子どもをよみがえらせたという記事が載っています。

ですから、たとえイエスさまのことを救い主だとは信じていなくても、少なくとも神さまから遣わされた預言者だと信じていれば、死者をよみがえらせることも不可能ではないと思えたはずです。ところが、彼らはイエスさまが神さまから遣わされたお方だということを、まったく信じていなかったのです。

イエスさまはその人々を無視なさいました。彼らがご自分のことを信じるよう説得したりしないで、さっさと遺体が安置されている部屋に入られました。イエスさまと共にその場にいられたのは、女の子の両親とペテロたち3人の弟子たちだけです。他の人たちは外に出されてしまいました。

ナインの青年をよみがえらせたとき、イエスさまは町の人々やご自分についてきた群衆の前で奇跡を行なわれましたが、ここでは隠れたところで奇跡をなさいました。一体どうしてでしょうか。
イエスの方針転換
実は、マルコ3:20-30(マタイ12:22-37)の時期、いわゆるベルゼブル論争が起こっています。ユダヤ人指導者たちは、「ナザレのイエスは救い主ではない。悪霊のかしらベルゼブルによって奇跡を行なっているだけだ」と公に決定し、そう人々に教え始めました。

イエスさまを救い主だと信じるユダヤ人は、個人的にはたくさんいましたが、国としては公にイエスさまを拒否したのです。そして、このときからイエスさまの教え方や奇跡の行ない方が変わりました。
  • それまではストレートな教え方だったのに、弟子たち以外にはもっぱらたとえ話で教えるようになりました。
  • それまでは奇跡をおおっぴらに行なっていたのに、少人数の前でしか行なわなくなりました。
  • それまでは奇跡を体験する人の信仰は問われなかったのに、信仰のある人にだけ奇跡を行なわれるようになりました。
  • それまではイエスさまの奇跡を体験した人がその話を広めるのを禁止していませんでしたが、「誰にも話すな」とおっしゃるようになりました。
公の活動の前半は、イエスさまはご自分が救い主だということを奇跡によって証明しようとしておられました。そうやってユダヤ人がみんなご自分を救い主だと信じて欲しいと願われたからです。

しかし、イスラエルが国としてイエスさまを否定した後は、ご自分のことを救い主だと信じた人だけをもっぱら相手になさいました。やがてイエスさまは十字架にかかり、復活して昇天なさいますが、その後地上に残されることになる信者を訓練することに時間を取るようになったということです。

このたびも、弟子たち以外には、イエスさまにいやしの力があると信じたヤイロ夫妻以外は、これから起こる偉大な奇跡を目撃できませんでした。他の人々はイエスさまの力を信じていなかったからです。

よみがえりの奇跡

5:41 そして、子どもの手を取って言われた。「タリタ、クム。」訳すと、「少女よ、あなたに言う。起きなさい」という意味である。

イエスさまは日常生活で使っておられたアラム語で、死んでいる娘に命じました。

5:42 すると、少女はすぐに起き上がり、歩き始めた。彼女は十二歳であった。それを見るや、人々は口もきけないほどに驚いた。

ヤイロの娘はイエスさまの命令を聞いて、命令通りに目を覚まし、立ち上がり、そして歩き始めました。

すると、人々、すなわちそこに居合わせ、一部始終を目撃した両親はびっくりしてしまいました。ペテロたちはかつて、ナインでよみがえりの奇跡を目撃しているはずで、もしそうなら今回が2回目の体験です。ただ、イエスさまが死人をよみがえらせるのは非常に珍しいので、おそらく彼らもびっくりしたことでしょう。
戒め
5:43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと厳しくお命じになり、また、少女に食べ物を与えるように言われた。

ベルゼブル論争後の奇跡のパターンと同じく、誰にも話すなとお命じになっています。ただ、死んだはずの娘が生きていれば、当然他の人たちは奇跡が起こってよみがえったのだと気づきますから、この話はあちこちに広まってしまいます(マタイ9:26)。

聖書には、両親や娘の反応が記されていません。しかし、どんなにか喜び、イエスさまに感謝したことでしょうか。そして、イエスさまこそやっぱり救い主だという信仰を深めたことでしょう。

それから、イエスさまは両親に、よみがえった娘に食べ物を食べさせるようおっしゃっています。生きている人が食事をするのは当たり前です。しかし、死んでしまったら食べることができません。当たり前のことが当たり前のようにできる幸いを、両親も娘も実感できたことでしょう。

では、ここから私たちは何を学ぶことできるでしょう。私たちがイエスさまの力強いみわざを体験するために、必要な心構えは何でしょうか。

2.力強いみわざを体験するために

イエスの恵みを期待しよう

福音書の中には、イエスさまによって奇跡を体験したり、人生が造り変えられたりした人のことがたくさん書かれています。彼らは自分が抱えていた問題を、イエスさまによって解決していただきました。たとえば、
  • ヤイロの家に向かう途中でイエスさまの衣の房に触った女性は、さまざまな制限をこの女性に与えていた長血という婦人病をいやしていただきました。
  • バルテマイという人は、目が見えなくて不自由していたとき、イエスさまによって目が見えるようにしていただきました。
  • カナで行なわれた結婚披露宴の裏方を仕切っていたマリアは、ぶどう酒がなくなって困り果てていましたが、イエスさまによって水を良いぶどう酒に変えていただきました。
そして、ヤイロの娘は死んで命を失っていたとき、その命を取り戻していただきました。

だたし、ヤイロの娘と他の人たちとで決定的に違うことがあります。長血の女性たちは自分が抱える問題をよく知っており、その問題の解決を強く願い、そしてイエスさまなら何とかしてくださると信じました。彼らには信仰があり、その信仰によって奇跡を体験したのです。先週も学びましたが、イエスさまは長血がいやされた女性にこうおっしゃいましたね。「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです」(34節)。

私たちが罪を赦され、救われて、神さまの子どもとなって永遠に祝福されるのは、福音を信じる信仰によります。福音とは、「イエスさまがこの私の罪を赦すために十字架にかかり、死んで葬られ、3日目に復活なさった」というメッセージです。これは本当のことだと信じたとき、私たちは本当に罪赦され、神さまと養子縁組して子どもとされ、永遠の祝福を受け継ぐ者とされます。

ところが、ヤイロの娘は自分の信仰によって奇跡を体験したわけではありません。彼女は自分が問題を抱えていることを知りませんでした。その問題の解決も願いませんでした。ましてやイエスさまに期待もしていませんでした。なぜなら死んでいたからです。

それでもイエスさまは、ヤイロの娘をよみがえらせてくださいました。神さまがくださる祝福、そして救いは、神さまからの恵み、すなわち一方的なプレゼントとして与えられます。

確かにその祝福を自分のものにするカギは信仰です。しかし、それでも私たちは祝福は神さまからの恵み、一方的なプレゼントなのだということを忘れてはなりません。私たちの信仰深さによって、祝福が与えられたり与えられなかったりするわけではありません。

以前も引用した聖書の箇所をもう一度紹介します。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:8)。

イエスさまの恵みにいつも感謝しましょう。恵み深い神さまをいつも賛美しましょう。そして、神さまの恵みについてもっともっと教えてくださるよう、聖霊なる神さまにお願いしましょう。それにより、私たちは神さまが必要ならば奇跡でさえも引き起こして私たちを助けてくださると信じることができるようになります。

他の人の取りなしを受けよう

この時期のイエスさまは、信じない人を信じさせるような働きではなく、信じる人を育てる働きに重点を置かれるようになったということをお話ししました。しかし、先程申し上げたとおり、ヤイロの娘は死んでいたので信仰を持つも何もありません。

ヤイロの娘がよみがえったのは、イエスさまならいやしを与えてくださると信じたヤイロの信仰のおかげです。彼はイエスさまこそ救い主だと信じていたのでしょう。少なくともイエスさまは神さまから遣わされた預言者であって、エリヤやエリシャのように奇跡を行なう力を持っていると信じていました。母親も同席を赦されていますから、母親もまた同様の信仰を持っていたのでしょう。

ヤイロの娘は、ヤイロ夫婦の信仰によって再び命を得ました。彼女がよみがえったのは、彼女の信仰ではなく、他の人の信仰によってでした。

私が祝福されるかどうかが、私一人の信仰によるのだとしたらどうでしょう。私の信仰はいかにも心許ないものだと言わざるを得ません。とてもとても神さまの祝福をいただけるような、そんな大きな信仰ではありません。

しかし、私には希望があります。祝福が神さまからの一方的な恵みによるという理由の他に、もう1つ理由があります。それは、私は1人で信仰生活を送っているわけではないということです。私には皆さんがついています。

ここに集う私たち一人ひとりは、中通りコミュニティ・チャーチというコミュニティの一員です。私たちは1人ではありません。ここに仲間がいます。私たちは自分自身のためだけでなく、他の人の祝福のために祈っています。私の信仰は、私に祝福をもたらすのには欠けが多いかもしれません。しかし、皆さんがそれを補ってくださっています。

そして、私もまた皆さんのためにとりなしの祈りを捧げることができます。

教会として祝福を味わうために、これまでもそうであったように、これからもますますお互いのためにとりなしの祈りを捧げ合いましょう。

聞いて応答しよう

ヤイロの娘は死んでいました。しかし、黄泉の奥底でイエスさまの「タリタ、クム」という命令を聞いて、それに聞き従いました。そうして彼女はイエスさまの奇跡を体験し、実際によみがえりました。

私たちに対して、イエスさまは聖書を通してさまざまな命令をなさっています。ときには祈りの中で、明確に「これをしておくれ」とか「やめておくれ」という促しを感じることがあります。それが本当に聖書の教えに合うものなら、私たちはそれに忠実に従いましょう。

奇跡が起こるというのは、この世のあらゆるものがイエスさまに従っているからです。他のものがイエスさまに従うことを期待しておきながら、自分だけはイエスさまに従わないというのは道理に合いません。ですから、神さまが自分の人生に働いて祝福が与えられることを期待するなら、私たちは積極的に神さまに従わなければなりませんね。

この話をお読みください。
ある高校生が、友だちから足りないところを攻撃されて悩んでいました。そこで、神さまに何とかしてくださるよう熱心に祈っていましたが、攻撃はさっぱりやまないどころか、ますますエスカレートしていく気がしていました。

そんなあるとき、教会の高校生会の集会で、リーダーのメッセージを聴いてハッとしました。リーダーはテトスへの手紙の一節を引用しました。「また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい」(テトス3:2)。そして、私たちが一番近い存在に対して、どんな態度を取っているか振り返ってみようという勧めが語られたのです。

この高校生は思いました。自分は、親が自分に対して気に入らない言動をしたとき、強く反発して苦々しい態度を取っていた。妹や弟に対して、年長者だからということであれこれ厳しく指摘をしてきた。友だちからつらく当たられてつらいなんて、いったいどの口が言うのか。

この高校生は悔い改めの祈りを捧げました。そして、両親やきょうだいに対しての態度を改め、柔和で優しい接し方をしますから助けてくださいと神さまに願いました。その後、家族との関係が改善しただけでなく、友だちとの関係も改善したそうです。

人間は不完全ですから、他の人の足りないところを指摘しようと思えばいくらでもできます。しかし、私たちは他の人がどうかではなく、この自分がイエスさまの命令に対して忠実であるか、ということに注目しなければなりません。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
聖書を通して祈りを通して、イエスさまの思いを受け取り、それに忠実に従いましょう。

あなた自身への適用ガイド

  • イエスさまの一方的な恵みについて、最近特に実感させられたことが何かありましたか?
  • あなた自身の課題について、他の人に祈ってもらっていることが何かありますか?
  • あなたが他の人のためにとりなしの祈りを捧げていることが何かありますか?
  • 今、あなたが神さまに実行するよう促されている命令がありますか?
  • 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?

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