(2022年2月6日)
サッピラは新約聖書使徒の働きに出てくる女性で、夫アナニアと共に神のさばきを受けて死んでしまいました。しかし、恐ろしいさばきの中にも神の恵みが示されています。
礼拝メッセージ音声
参考資料
サッピラの夫の名はアナニアといいます。ダマスコ途上で復活のイエス・キリストによって目が見えなくなった迫害者サウロをいやしたアナニアとは別人です。
ダマスコのアナニアについては
こちらの記事をご覧ください。
イントロダクション
最近は聖書に登場する女性を取り上げていす。前回で福音書が終わり、今回から使徒の働きや手紙に登場する女性について学びます。今日はサッピラという女性が主人公です。この女性はイエスさまを信じるクリスチャンで、エルサレムで誕生したばかりの教会の一員でした。そして、神さまのさばきを受けて夫に続いて死んでしまいました。
神のさばきというと、とても恐ろしくて考えたくもないテーマですね。しかし、このような一見恐ろしい箇所にも、私たちに対する神さまの慰めや励ましがあります。今日はそれをご一緒に見つけ出しましょう。
1.サッピラ夫妻へのさばき
背景
まずは今回の出来事の背景を見てみましょう。復活したイエスさまは、40日に渡って弟子たちの前に現れて教えを授けた後、天にお帰りになりました。それから10日たって聖霊なる神さまが弟子たちに降ります。そして、元々弟子の数は120人ほどでしたが、その日1日で3000人がイエスさまを信じて仲間に加えられます。こうして、最初の教会がエルサレムに誕生しました。
初期のエルサレム教会の様子について、今回の直前の箇所では次のように説明されています。
「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」(使徒4:34-37)。
共助の精神
最近、福祉の世界や防災の世界で、「自助」「共助」「公助」という言葉が頻繁に聞かれるようになりました。
- 自助は、自分で自分の身や生活を守ること
- 共助は、周りの人たちと互いに助け合い、支え合うこと
- 公助は、国や地方団体がしてくれること
を表しています。これらは3つとも大切で、バランス良く実践されなければなりません。
ただ、最近では「共助」の働きが弱くなっていると言われています。地域の共同体が以前と比べて崩れてしまっているからです。かつては隣に醤油を借りにいったり、いたずらをした子どもを近所のおじさんが叱ったりということは、普通に行なわれていました。それが今や、隣に誰が住んでいるのかも分からないし、関心もないという人たちがたくさんいます。そんな状況では、隣近所で助け合うことなど難しいでしょう。
しかし、エルサレム教会の中には、助け合いの精神、社会的弱者に対する愛が満ちあふれていました。エルサレム教会は、共同体、コミュニティとしてしっかり機能していたのです。その一つの例として、財産を持っている人がそれを教会にささげ、教会が必要な人に分配するという形が紹介されています。
特にバルナバが紹介されているのは、彼が後に使徒パウロと共に伝道旅行に出かけるからでしょう。 彼だけでなく、さまざまなクリスチャンがお金や持ち物を分かち合い、助け合っていました。
アナニアとサッピラの嘘
では、サッピラとその夫であるアナニアが何をしたのか見ていきましょう。
「ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた」(1-2節)。
慰めの子バルナバがそうしたように、アナニアとサッピラも自分たちの土地を売って代金を教会にささげました。それは素晴らしいことでした。ところが、2人は代金の一部を手元に残し、残りをささげたのでした。
しかも、後にペテロがサッピラに
「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい」と尋ねたとき、
「はい、その値段です」と答えています(8節)。彼らは一部を手元に残しておきながら、全部ささげたと嘘をつき、教会の人々を欺いたということです。
しかもその嘘は、サッピラも承知のうえだったと書かれています。サッピラも今回の欺きの共犯者です。 今回の話において、アナニアとサッピラは一心同体でした。アナニアがしたことはサッピラがしたことであり、アナニアに向かって語られたことはサッピラに向かって語られたのと同じです。
ペテロによるアナニアへの断罪
さて、ペテロにはアナニアとサッピラのやったことがお見通しでした。聖霊なる神さまがペテロの心に語られ、ペテロは超自然的に真相を把握したのでしょう。
「すると、ペテロは言った。『アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか」(3節)。
先程申し上げたとおり、これは直接的にはアナニアに向かって語られていますが、サッピラに向かって語られたのと同じです。ペテロは3つのことを語っています。
- アナニアとサッピラはサタンに心を奪われた。
- 2人は聖霊なる神さまを欺いた。
- 具体的には、土地の代金の一部を取っておいた。
神のものを盗んだ
ペテロが「代金の一部を取っておいた」と語っている箇所の「取っておく」と訳されている言葉は、「盗む」と訳すこともできます。実際テトス2:10では「盗む」と訳してあります。
しかも「聖霊を欺き」と語られています。土地の代金は神さまの働きのために全部ささげますと言って聖霊なる神さまをだまし、本来神さまのものであるはずのお金を盗んだというニュアンスです。
全財産をささげろということ?
では、財産を全部教会にささげないと、神さまのものを盗んだことになるのでしょうか。そうではありません。続けてペテロは次のように語っています。
「売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ』」(4節)。
ペテロはここで2つのことを語っています。
- 土地を売って代金を教会にささげることは、どうしてもしなければならない義務ではない。
- たとえ売ったとしても、そのお金をどのように使うかは2人の自由。すなわち、全部ささげず、一部を自分の生活のために残しておいても構わない。
じゃあ、アナニアとサッピラの何が問題だったのか。それは一部しかささげていないのに、それを全部だと言って嘘をついたことです。
土地を売った代金はあくまでもアナニアとサッピラのものです。しかし、「土地を売った代金のすべてをささげます」と2人が公に宣言したその瞬間、代金は全部神さまのものになりました。ですから、一部を手元に残すことは神さまのものを盗むことであり、聖霊なる神さまをだますことだとペテロは語っているのです。
見栄
では、なぜアナニアとサッピラはそんなことをしてしまったのでしょうか。それは見栄を張ったからです。自分たちもバルナバのように全財産を貧しい人たちのためにささげて、立派な信仰者だとみんなにほめられたいという見栄です。
イエスさまは、見栄のために良いことをして見せびらかすことを、ことのほか嫌われました。当時の宗教的指導者たちは、わざわざ人前で長々と祈ったり、ラッパを吹いて注目を集めておいて貧しい人に施したりしていました。そんな彼らのことを、イエスさまは偽善者と呼んで激しく非難なさいましたね。
アナニアとサッピラの罪は、全財産をささげなかったことではありません。見栄を張って自分たちを立派な人間であるかのように見せびらかし、そのために嘘をついたこと。すなわち偽善の罪と嘘の罪です。
アナニアとサッピラの死
それでは、見栄を張って偽善と嘘の罪を犯し、教会の人々と聖霊さまを欺こうとしたアナニアとサッピラはどうなったでしょうか。2人はそれぞれ3時間の時間差で死んでしまいました。
「このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた」(5節前半)。
「すると、即座に彼女はペテロの足もとに倒れて、息絶えた」(10節前半)。
これは罪を犯した2人への神さまからのさばきです。ただし、アナニアとサッピラの救いが取り消しになったというわけではありません。
今日私たちが死ぬと、体と分離した魂が天のパラダイスに招き入れられます。そして、天のパラダイスにはアナニアとサッピラの魂もいて、イエスさまのみもとで深い安らぎを味わいながら復活の時を待っています。
神の子どもたちへの父の懲らしめ
聖書は、一度イエス・キリストを信じて救いを受け取り、神さまの子どもとされた人が、その後神さまから捨てられて救いを取り消されることは決してないと教えています。
ただし、父親が愛する子どもをしつけ、必要に応じて懲らしめを与えるように、天の父である神さまは子どもである私たちに同じようになさいます。
すなわち、罪だと分かっていることを繰り返し行ない、神さまや教会からの戒めを無視してそれを続けると、苦しみがやってきてそういうことをしてはいけないということを思い知らされるということです。
コリント人への第1の手紙と神の懲らしめ
コリント教会では聖餐式を行なう際に、食事を自分で用意できない貧しい人たちが放ったらかしにされ、裕福な人たちだけでさっさと済ませていました。その結果、神さまの懲らしめが下っているとパウロは手紙の中で書いています。
「あなたがたの中に弱い者や病人が多く、死んだ者たちもかなりいるのは、そのためです」(第1コリント11:30)。
懲らしめの結果、死んでしまう場合もあるということですね。しかしパウロは、神さまはクリスチャンをめったやたらに懲らしめるわけではないし、懲らしめるとしても永遠の滅びを与えるためではないと語っています。
「しかし、もし私たちが自分をわきまえるなら、さばかれることはありません。私たちがさばかれるとすれば、それは、この世とともにさばきを下されることがないように、主によって懲らしめられる、ということなのです」(第1コリント11:31-32)。
ヘブル人への手紙と神の懲らしめ
ヘブル人への手紙の作者も、次のように語っています。
「あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。『わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから』。
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか」(ヘブル12:4-7)。
続く8節では、懲らしめを受けない人がいるとすれば、それは本当の子どもではないとさえ語られています。神さまの懲らしめを受けて苦しむのは、神さまに愛されていないからではなく、むしろ大切な子どもとして愛されているからです。
今回の記事をさらっと読んだだけでは理解しがたいことですが、アナニアとサッピラは神さまに憎まれていたのではなく、実は子どもとして深く愛されていたのです。
クリスチャンたちの恐れ
その結果どうなったでしょうか。この当時は大きな教会堂があって、そこにみんなで集まって集会を開いていたわけではありません。クリスチャンたちは数人ずつ家などに集まって、礼拝したり、一緒に祈ったり、聖書の教えを学んだりしていました。
ペテロがいた家の教会で今回の出来事が起こりました。そしてそのニュースは、すぐにエルサレムのあちこちにあった家の教会に伝えられます。すると、クリスチャンたちの心に恐れが生じました。
「これを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた」(5節後半)。
「そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた」(11節)。
恐れとは
この恐れは、自分たちもいつひどいさばきを受けて滅ぼされるか分からないという恐怖ではありません。私たちの罪は、すべてイエス・キリストの十字架によって赦されているので、私たちが罪の罰を受けて永遠の滅びを招くことは決してありません。
学校やクラブなどで、他の生徒が先生に叱られているのを見たとき、一種の緊張感を味わって「しっかりやらなきゃ」と改めて思いますね。背筋が伸びる感覚と言ってもいいでしょう。ここでいう恐れとは、それに似た感覚です。
クリスチャンたちはサッピラたちが死んだという話を聞いたとき、信仰の背筋を伸ばしました。そして、ヘブル人への手紙の作者が暗に勧めているように、「罪と戦って、血を流すまで抵抗しよう」と改めて決意しました。これが、エルサレム教会に広がった恐れの中身です。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。
2.神の愛を再確認しながら正しい生き方を目指そう
自発的な意欲を大切にしよう
私がカルトの牧師なら、今回の箇所を使って、皆さんに全財産をささげるよう強制することでしょう。しかし、ペテロが語っているとおり、自分のお金を献金としてささげるかどうかはそれぞれの自由意志に任せられています。ささげてもいいしささげなくてもいい、全部ささげてもいいし一部だけささげてもいい、ということです。
聖書は、教会への献金の額や割合を決めていません。決められているのは次のことです。
「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(第2コリント9:7)。
エルサレム教会の人々の多くは、貧しい人たちのために自分の財産をささげました。それは、そうしなければかっこ悪いからではないし、そうしなければ非難されたり、神さまにさばかれたりするからではありません。内側からあふれる愛がそのような行動を生み出しました。
そして貧しい人たちへの愛は、自分が神さまに愛されているという喜び、感動、感謝から生まれました。
このみことばは献金だけの話ではありません。あらゆる良い行ないに通じます。
アナニアとサッピラが見栄を張ってしまったのは、神さまがあるがままの自分を赦し、愛してくださっているということ、そしてそのためにイエスさまがご自分のいのちを投げ出してくださったということを見失って、喜びや感動を忘れてしまっていたからです。
私たちはいつもイエスさまの十字架を仰いで、喜び、感動、感謝を忘れないようにしたいですね。そして、それを原動力として正しい行ないをしましょう。
苦しみの中に神の愛を見いだそう
今回私たちは、サッピラが夫と共に死んでしまったという記事を読みました。しかし、その背後には神さまの憎しみではなく愛があったということを確認しました。
私たちの人生にも、さまざまな悩みや苦しみがあります。そんなときに、「神さまは結局私のことなんてどうでもいいんだ。むしろ嫌っているんだ」と結論づけるのは簡単です。
しかし、事実はそうではありません。神さまはイエス・キリストを信じて神さまの子どもとなった私たちのことを、今この瞬間も愛し、これから先永遠に愛し続けてくださいます。
この話をお読みください。
日本の知的障がい者福祉の草分けであり、社会福祉法人「滝乃川学園」の創設者である石井亮一・筆子夫妻に関する記事を読みました。
後に亮一さんの妻となる筆子さんは、親が決めた許嫁と結婚して3人の娘をもうけます。しかし、上の2人は知的障がいがあり、三女は生まれて間もなく亡くなりました。そして、夫も病気で亡くし、虚弱だった次女も亡くなってしまいます。
そんな頃、死者7千人を出した濃尾大地震が起こります(1891年10月28日)。そして、孤児となった女の子たちをさらって女郎屋に売り飛ばす人たちが現れました。そこで、女子の孤児たちを保護して養育する働きを始めたのがクリスチャンの石井亮一さんでした。
そして、様々な悲しみを通してイエスさまと出会い、クリスチャンとなっていた筆子さんは、亮一さんの働きに共鳴して経済的な援助を始めます。亮一さんの運営する養育施設には知的障がい児もいたため、筆子さんはその施設に長女を預け、自分もその施設で働くようになりました。こうして、やがて二人は結婚します。
しかし、1921年、生徒の火遊びから施設に火災が発生し、生徒6人が亡くなってしまいました。さすがの亮一さんも、「神さまは私たちを見放された。この試練に耐えるだけの信仰は、私にはない」と叫ぶほど意気消沈します。そして、二人は施設の閉鎖を決意しました。
ところが、神さまは二人と孤児たちを見放しておられませんでした。新聞に施設の焼失の記事が載ると、大正天皇の皇后を始め、全国から多くの寄付や励ましの手紙が寄せられました。そして、渋沢栄一氏の助けを借りて財団法人化し、火災から半年後には施設を再開することができたのです。
次から次へと問題が押し寄せ、「自分は神に見捨てられた」と言いたくなるような状況。それでもイエスさまの愛を信じ続け、みこころを行なおうと努め続けている人を、神さまは決して見放すことをなさいません。もちろん、あなたのことも。
もちろん、罪だと分かっていて悔い改めていないことがあるなら、それは悔い改めて正しい行ないに戻らなければなりません。それでも、神さまに愛されていることを、私たちは決して忘れてはなりません。
他の人を神の愛に引き戻そう
今回の出来事の中で、サッピラは終始夫であるアナニアと同じように考え、同じように行動しました。本来なら、たとえ夫が間違ったことをしようとしても、それを止めなければならなかったはずです。
アナニアが代金の一部を取っておきながら、それを全部だと偽った背後には、自分を良く見せたいという見栄があったと確認しましたね。であれば、サッピラがすべきだったのは、
- たとえ自分たちの生活のためにお金を残したとしても、神さまは自分たちを叱ったりさばいたりなさらないと伝えること
- だから、堂々と「これは代金の一部です」と教会の人たちに伝えようと励ますこと
でした。
他の人の間違いに同調することは、その人に対する愛の行為ではありません。本当の愛は、他の人を神さまの愛に引き戻すことです。そのためには、時に相手の意に沿わぬことを言ったり行なったりする必要があるかもしれません。
しかし、私たちが神さまの愛を知り、神さまの愛に突き動かされているならば、たとえ一時的に相手に嫌われたとしても、神さまの愛を語り続け、神さまの愛に応えるよう勧め続けましょう。
あなた自身への適用ガイド
- 苦しみを通して自分の間違いを示され、悔い改めに導かれた経験が最近ありましたか?
- 最近、見栄を張る誘惑に遭いませんでしたか? それはどのような誘惑でしたか? またその誘惑にどのように反応しましたか?
- 神さまの愛に対する喜び、感動、感謝によって、思いがけず良い行動ができたということが最近ありましたか? その際あなたが感動したのはどういう内容ですか?
- 苦しみの中でも、神さまの愛を信じ続けた経験を思い出しましょう。どうしてあなたは信じ続けることができたのでしょうか?
- 相手の意に沿わないと分かっていても、それでもその人が神さまの愛に近づくための行動をしたことを思い出しましょう。あなたは何をしましたか? そしてその結果はどうでしたか?
- 今日の聖書の箇所を読んで、どんなことを決断しましたか?