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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

ヤイロ

助演男優シリーズ21

マルコによる福音書5章35節〜43節

(2022年7月31日)

ヤイロはイスラエルの会堂司(シナゴーグの管理者)です。12歳になる娘を病気で亡くしますが、イエス・キリストの奇跡によってよみがえらせてもらいました。

礼拝メッセージ音声

参考資料

35節の会堂司は、会堂(シナゴーグ)の管理者。会堂は礼拝や律法の教育、地域の行事のための場所で、ユダヤの民がバビロンに捕囚された際に組織されました。そしてバビロンから解放された後、イスラエルの各地に作られました。各会堂に属する長老たちが輪番制で会堂司を担当し、建物の管理を行なったり、伝統通りに礼拝が行なわれるよう見守ったりしました。

41節の 「タリタ、クム」は、当時のユダヤ人たちが日常生活で使っていたアラム語。タリタが「娘」、クムが「起きよ・立て」という意味です。

イントロダクション

本日は、死んでいたのにイエスさまによってよみがえった少女の父、ヤイロです。彼の信仰面に注目しましょう。私たちはヤイロを通して、信仰のテストは私たちを励ましたり、さらに成長させたりするということを確認します。

1.ヤイロの信仰

イエスへの懇願

舞台はおそらくカペナウムです。イエスさまが活動の拠点にしていた町です。その町は会堂がありました。会堂はユダヤ人が聖書を学んだり礼拝したりするための施設で、13歳以上のユダヤ人男性が10人以上いる町に作られました。現在、日本にもいくつか存在しています。

カペナウムにあった会堂は、ローマの百人隊長が資金を出して建設されました(ルカ7:5)。今カペナウムがあった場所に残っている会堂の遺跡は3世紀に建てられたものですが、遺跡の下に福音書時代の土台が残っています。ヤイロは会堂の建物を管理したり、礼拝を監督したりする会堂司でした。
ヤイロには12歳になる娘がいて、病気で死にかけていました。そこで、イエスさまの所にやってきて娘をいやしてくれるよう懇願しました。「すると、会堂司の一人でヤイロという人が来て、イエスを見るとその足もとにひれ伏して、こう懇願した。『私の小さい娘が死にかけています。娘が救われて生きられるように、どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください』」(5:22-23)。

ここから、ヤイロの信仰の肯定的な面と否定的な面を挙げてみましょう。
ヤイロの信仰の肯定的な面
肯定的な面は、イエスさまにはいやしを行なう力があると信じていたということです。そればかりか、ヤイロはイエスさまが救い主(メシア、キリスト)だと信じていました。なぜそれが分かるのでしょうか。

イエスさまは、ベルゼブル論争と呼ばれるできごと以降、活動の方針をガラッと変えてしまいました。ベルゼブル論争とは、イエスさまのことを救い主だと信じたくないユダヤ人指導者たちが、「イエスは救い主ではない。悪霊のかしらベルゼブルによって奇跡を行なっているだけだ」と公に決定して人々に教え始めたのに対して、イエスさまが非難なさったことです。

マルコ3:20-30、マタイの12:22-37)の時期、いわゆるベルゼブル論争が起こっています。ユダヤ人指導者たちは、「ナザレのイエスは救い主ではない。悪霊のかしらベルゼブルによって奇跡を行なっているだけだ」と公に決定し、そう人々に教え始めました。

それまでのイエスさまは、多くの人々の前でおおっぴらに奇跡を行ない、ご自分が救い主だという証拠を見せておられました。できるだけ多くのユダヤ人がイエスさまを救い主だと信じられるようにするためです。そのため、ペテロたちを初め多くのユダヤ人が個人的に「イエスさまこそ救い主だ」と信じました。

ところが、イスラエルの国が公にイエスさまのことを救い主ではないと決定してしまったため、イエスさまは活動方針を変えました。すでに信じた人たちを訓練して、やがてイエスさまが天にお帰りになった後、教会がイエスさまの体として活動できるようにするのが、ベルゼブル論争以降の方針になったのです。

そこで、群衆に対してはストレートな教え方をやめてもっぱらたとえ話で教えるようになりました。たとえ話は、信じている人には理解を助けますが、信じていない人にはさっぱり意味が分かりません。そして、これまでは相手が信じていようがいまいが奇跡を行なわれましたが、ベルゼブル論争後は信じている人の前でしか奇跡を行なわなくなりました。

イエスさまはヤイロの娘をいやしてやろうとして、ヤイロの家に向かわれました。そして、後でまた見ていきますが、3人の弟子たちだけでなく、ヤイロとその妻を娘が寝かされている部屋に入れて、奇跡を目撃することを許可しておられます。これはヤイロ夫妻がイエスさまのことを救い主だと信じていたことを表しています。
ヤイロの信仰の否定的な面
では信仰の否定的な面は何でしょうか。ヤイロにはローマの百人隊長ほどの信仰はなかったということです。

カペナウムの会堂改築の資金を提供してくれた百人隊長には、重んじていたしもべがいましたが、このしもべが病気にかかってしまいました。そこでイエスさまに使いを遣わして、しもべをいやしてくださるようお願いしました。

願いを了承したイエスさまが百人隊長の家に向かうと、その途中で百人隊長はまた人を遣わして、「わざわざ我が家においでになる必要はありません」と言いました。イエスさまには権威があるから、ただ「いやされよ」と言葉を発するだけで、病気はそれに従ってしもべを解放するはずですと。

一方ヤイロはイエスさまに「どうかおいでになって、娘の上に手を置いてやってください」と言っています。イエスさまの権威の大きさを信じる信仰において、ヤイロは百人隊長に及びませんでした。

といっても、ヤイロが非難されるべきだということではありません。ヤイロはどちらかというと指導者側の人間なのに、イエスさまのことを救い主だと信じました。これは驚くべきことです。無理矢理信仰の否定的な面を取り上げたのは、私たちの信仰はいくらでも成長の可能性があるということ、伸びしろがあるということを示すためです。

長血の女

さて、ヤイロの娘がいやされる話の面白いところは、途中で別の人の話が挟まっていることです。長血という不正出血が止まらない婦人病で長年苦しんでいた女性が、イエスさまによっていやされた話です。
  • 長血の女性については聖書の女性シリーズでも取り上げました。
    こちらの記事をご覧ください。

イエスさまがヤイロの家に向かうと、大勢の人がイエスさまの周りに群がりました。そこで、なかなか前に進めない状況になってしまったことでしょう。早くイエスさまに娘をいやして欲しいヤイロは、きっとやきもきしたでしょうね。

ところが、さらにイエスさまの足を止める出来事が起こります。群衆に紛れて、長血の女性がイエスさまの衣に取り付けられた房に触りました。そうすればいやされると信じていたからです。そして、その信仰の通り女性は長年の長血がいやされました。
いやされた女性はすぐに姿を消そうと思っていましたが、そうはいきませんでした。イエスさまは立ち止まり、自分に触った者がいると言って周りをキョロキョロと見回し始めました。これは逃れられないと覚悟した女性は、自分がやりましたと告白しました。そして、これまでの経緯をイエスさまに説明し始めます。

苦しかった身の上話が2,3分で終わるとは思えません。10分、ことによれば20分以上も女性は話し続けたことでしょう。イエスさまはその話を途中で切り上げさせることをせず、最後までじっくり耳を傾けました。

その様子を見ていたヤイロはどんな気持ちだったでしょうか。きっと「この女性はすでにいやされたのだから、もうその辺でいいじゃないか。うちの娘は死にかけていて急いでるんだ」と、さらにやきもきさせられたことでしょう。

しかし、ヤイロはイエスさまや女性に文句を言いませんでした。イエスさまのなさることに、ヤイロは口を挟まなかったのです。

娘のよみがえり

イエスさまと女性がまだ話している最中、ヤイロの家から使いがやってきます。彼は言いました。「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか」(35節)。

すると、それを聞いたイエスさまはヤイロを励ましました。「恐れないで、ただ信じていなさい」(36節)。ヤイロが途中でイエスさまや女性に文句を言わなかったのは、その励ましの言葉を聞いていたからかもしれません。ヤイロは、イエスさまの励ましの言葉を聞いて、イエスさまなら何とかしてくださると信じ続けました。

ようやく移動が再開され、イエスさま一行がヤイロの家に到着しました。すると、多くの人が取り乱して大声で泣きわめいていました。当時の中東では人が亡くなると泣き女と呼ばれる女性たちがやってきて、大声で泣きました。死んだ人が皆に愛されていたということを示すためです。

ところがイエスさまは言いました。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです」(39節)。これを聞いた人々はイエスさまをあざ笑いました。彼らは娘が死んだのを確認しているのですから、当然の反応かもしれません。イエスさまは彼らを説得しようとせず、ヤイロ夫妻とペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人の弟子だけを連れて家の中に入っていきました。

先程申し上げたとおり、信じない人はスルーして信じる人の前でだけ奇跡を行なうというのが、ベルゼブル論争後のイエスさまの基本方針だからです。

そして、ヤイロはイエスさまによって娘を取り戻しました。死んでいた娘が、イエスさまの「タリタ、クム」という呼びかけに答えてよみがえったのです。こうして、ヤイロは愛する娘を再びその腕に抱くことができました。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.何があっても信じ続ける

信仰にはテストがつきものだと知ろう

神さまを信じる者には、その信仰が本物だということを証明するためのテストがやってきます。聖書の中でその例をいくつか挙げてみましょう。
  • アダムとエバ。唯一食べることを禁じられた木の実を食べるかどうかテストされました。彼らは失敗してしまいましたね。
  • アブラハム。息子が与えられると約束されて、実際にイサクが誕生するまで25年も待たされました。途中、信仰が揺れそうになることはありましたが、最終的にアブラハムは神さまの約束を信じ続けました。
  • ペテロ。彼は「自分は決してイエスさまを見捨てない」と豪語していました。しかし、イエスさまが逮捕され、「お前もイエスの仲間だろう」と問い詰められると、「そんな奴は知らない」と3度も否定してしまいました。
ヤイロも、移動する途中で散々待たされ、挙げ句に娘が亡くなったという知らせを受け取りました。それでもイエスさまなら何とかしてくださると信じるかどうかというテストです。彼はイエスさまをせっついたり恨み言を言ったりしませんでした。信仰のテストにパスしたのです。

私たちも、祈っても祈ってもなかなか願ったとおりにならなかったり、祈ったのとは違う結果になったり、それどころかこんなふうにだけは奈良名で欲しいと思っていたことが起こったりすることがあります。

そんなとき、悪魔は私たちの心に神さまの愛や力を疑う思いを植え付けようとします。「ほら、神がお前を愛しているなんて嘘っぱちだ」「ほら、神が全知全能なんて嘘っぱちだ」。それでも私たちは天の父なる神さま、イエスさま、聖霊さまの愛や力を信じ続ける方を選びましょう。「私はそれでも信じます」と宣言しましょう。

信仰のテストの目的を知ろう

学校でも様々なテストを受けます。テストというのは、多くの人にとってあまり嬉しいものではないことでしょう。しかし、学校が生徒にテストを受けさせるのは、生徒をいじめて楽しむためではありません。

学校でテストが行なわれる理由の一つは、教えたことが生徒に身についているかどうか確認するためです。問題に正解すれば自信になりますし、正解できなければ「ここを復習すればいいんだな」と、勉強のポイントが分かります。

ある学校では、テストは何回受けてもいいというルールがあるそうです。追試でもまったく同じ問題が出ます。ですから、自分の成績に納得いかない生徒は、できなかった問題を復習して何度も再チャレンジして、最終的に100点を取ることが可能なのです。宿題なんか出すよりずっと生徒の実になるとその学校の先生方は語っていました。

幸いなことに、私たちが信じる神さまは赦しの神です。イエスさまの十字架と復活を信じたとき、私たちの罪は未来の罪も含めてすべて、完全に赦されました。ですから、私たちはたとえ信仰のテストに失敗してしまったとしても、悔い改めて再チャレンジすることができます。

信仰の父と呼ばれるアブラハムも、実は何度も失敗しています。たとえば、サラの妊娠を待ちきれずに、女奴隷ハガルによってイシュマエルという息子をもうけてしまいました。自分が殺されるかもしれないと恐れて、妻であるサラを妹だと偽りました。しかも2度も。

その結果痛い目にあったりもしましたが、それでもアブラハムはいつも神さまの約束に戻ってきました。そして、信仰にふさわしい行動を実践しました。そして、アブラハムの信仰はテストを通り抜けるたびに強められていきました。
ヤイロもそうです。彼は元々イエスさまを救い主だと信じる信仰を持っていました。しかし、すぐに娘の病気がいやされず、しばらく待たされるというテストを通ることによって、よりイエスさまの力強さを知ることになりました。彼は信仰のテストを通して強められたのです。

私たちも神さまの約束を信じ切れなかったり、神さまに対して怒りを覚えてしまったりして信仰のテストに失敗してしまうことがあるでしょう。しかし、それに気づいたなら、改めて神さまの約束を信じ直しましょう。それによって私たちは成長していきます。

信仰のテストをクリアしよう

信仰にはテストがつきものです。そして、信仰のテストは私たちを励ましたり、さらに成長させたりするために与えられます。

ですから、期待通りのことが起こらなかったとき、嫌だなと思うことが起こったとき、「信仰のテストがやってきた」と捉えてみましょう。そして、信仰のテストをクリアするには、一体どんな行動をしたらいいかを考えて実行しましょう。

この話をお読みください。
ある人が宝くじを買いましたが、残念ながら外れてしまいました。がっかりしながらこう思いました。「もし宝くじが当たって1億円手に入れることができたら、こんなふうに毎日苦労して仕事をしなくてもすむのに」。そして、次こそは宝くじが当たるようにと神さまに祈りながら眠りにつきました。

すると、彼は宝くじが当たって1億円を手にする夢を見ました。それはただの夢でしたが、彼は目を覚ましてからも喜びと興奮を抱き続けました。これは幸先がいい。きっと神さまは私の祈りを聞いてくださって、そのしるしとしてあの夢を見させてくださったのだ。そう考えたからです。

そして、いつものようにシャワーを浴びようとしましたが、どういうわけかお湯が出ません。しょうがないのでシャワーをあきらめて新聞を取りに行きましたが、新聞が来ていません。しょうがないので朝食を食べようとしましたが、停電でコーヒーメーカーもトースターも作動しません。仕方なく空腹のまま職場に向かおうとしますが、待てど暮らせどバスがやってきません。

途方に暮れたその人は、たまたま近くを通りかかった人に愚痴をこぼすと、その人はこう答えました。「ああ、ご存じなかったのですね。実は昨日全ての国民に1億円の宝くじが当たったので、みんな働かなくなってしまったのですよ。もちろん、水道局の人も新聞社の人も電気会社の人もバス会社の人も」。

その瞬間、彼は再び目を覚ましました。それもまた夢だったのです。その人は、「神さま。私が1億円当たらなかったことを感謝します!」と叫びました。

私たちが考える幸せと、神さまが考える幸せは時に全く違いますね。ですから、「すべてのことにおいて感謝しなさい」(第1テサロニケ5:18)。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
皆さんは今、信仰のテストを受けていませんか? 聖霊なる神さまがそのテストをクリアする知恵や力を与えてくださいますように。そして、信仰のテストを通してますます信仰が成長しますように。

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