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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

一番偉い人

イエス・キリストの生涯シリーズ43

マルコによる福音書9章33節〜43節

(2023年8月20日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

33節の「カペナウム」は、ガリラヤ湖北西岸にあった港町。イエスさまによるガリラヤ伝道の拠点でした。「家」はペテロの家だと考えられています。

42節の「つまずかせる」とは、他人の信仰の獲得や成長を邪魔することです。

43節の「ゲヘナ」は、世の終わりに不信者が復活した後に、サタン(悪魔)や悪霊たちと共に投げ込まれる場所で、永遠に苦しみが続きます。聖書では「火の池」などとも呼ばれています。

イントロダクション

前回は、イエスさまが神殿税を支払うため、ペテロに魚を釣ってきなさいと命じた話を取り上げました。そして、私たちが自分の行動を選ぶ基準をそこから学びました。今回も、私たちの行動基準を教えていただきましょう。

1.弟子たちへの教え

神の国において偉い人

弟子たちへの質問
一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。『来る途中、何を論じ合っていたのですか』」(33節)。

この話の前、イエスさまは、イスラエルの北にあるヘルモン山の上で栄光の姿に変わり、モーセやエリアも現れてイエスさまと話をしました。また、山の麓に降りてこられた後、やっかいな悪霊につかれた子どもをいやされました。その後、カペナウムに戻って来られました。

カペナウムでいつもイエスさまが泊まっておられたのは、ペテロの家だと考えられています。そしてペテロに魚を釣らせ、その口の中から銀貨を取り出して神殿税として支払うようお命じになりました。今回はその直後の話です。

旅の後片付けが終わって落ち着くと、イエスさまは弟子たちに質問なさいました。それは、家に入るまでの間、弟子たちが何を話し合っていたのかという質問でした。
弟子たちの議論の内容
「彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである」(34節)。

弟子たちははっきりと議論の内容を答えませんでした。実は、平行記事であるマタイの福音書では弟子たちの方からイエスさまに質問したと書かれています。「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。『天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか』」(マタイ18:1)。

旧約聖書には、救い主が現れたら神の敵をすべて滅ぼし、地上に天の御国(神の国、千年王国)を建設し、全世界に平和と喜びをもたらしてくださると預言されています。

ただ、これまでもお話ししてきたとおり、神の国に招かれるためには、まず神さまによって罪を赦していただく必要があります。そうでないと、神さまの敵として滅ぼされることになります。そこで、救い主は罪人の身代わりとして十字架にかかって死に、それから復活しなければなりません。そのことをイエスさまは弟子たちにはっきりと教えるようになっていました。

ところが、弟子たちは救い主であるイエスさまが殺されるはずがないと思い込んでいて、イエスさまの十字架と復活の教えを理解しようとしませんでした。むしろ、彼らの意識は、神の国が実現した後のことに向けられていました。

この頃のイスラエルはローマ帝国によって支配され、属国となっていました。そこで、ユダヤ人たちは、救い主が現れてローマ人たちをやっつけ、イスラエルを独立させてくれることを切望していました。弟子たちもそうです。特に弟子たちは、イエスさまが間もなくエルサレムに赴いて、ご自分が神の国の王である救い主だと宣言し、実際に神の国を打ち立ててくださると期待していました。

弟子たちはカペナウムに戻ってきた道すがら、神の国が実際に完成した場合に自分たちの序列はどうなるのかということを話し合っていました。しかし、それをストレートに表現することをはばかって、一般論として天の御国において偉い人とはどういう人なのか話し合っていたと答えたのです。

神の国では救い主が大王として全世界を治めます。そして、救い主の支配を助けるために、さまざまな役職の人たちがその元で働くことが旧約聖書で預言されています。たとえば、エルサレムの中央政府で働く大臣や官僚たち、世界各国の自治を任される王たち、知事たち、地方官僚たちです(イザヤ32:1、詩篇72:10-11など)。

12人の弟子たちはいつもイエスさまと共に行動していました。ですから、当然中央政府の大臣クラスになれるだろうと思っています。その中で、総理大臣は誰で、副首相は誰で、財務大臣は誰で……要するに、自分たちの中で一番偉くなるのは誰か。弟子たちはそんなことを気にして話し合っていたのでした。
仕える人が一番偉い
「イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。『だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい』」(35節)。

弟子たちの本音を見抜かれたイエスさまは、「神の国において偉くなりたいなら、みんなの先頭に立って他の人を支配しようとするのではなく、むしろ後ろに下がって他の人に仕える人になれ」とおっしゃいました。
仕えることの一例
「それから、イエスは一人の子どもの手を取って、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱いて彼らに言われた。『だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです』」(36-37節)。

それからイエスさまは、1人の子どもを弟子たちの真ん中で抱き上げました。イエスさま一行がいたのがペテロの家だとすると、おそらくペテロの子どもでしょう。そして、「このような子どもをイエスの名のゆえに受け入れる」ことを、先に話された他の人に伝える生き方の例として挙げられました。
この頃のイスラエルでは、子どもに対する見方・接し方が今とはずいぶん異なりました。もちろん親や地域の人たちは子どもを愛し、大切に養育しました。しかし、子どもは人として不完全な存在であって、取るに足らない者と見られていました。相手がそんな子どもであっても、イエスさまのお名前のゆえに受け入れるようにと、イエスさまは弟子たちにおっしゃいました。

では、「子どもをイエスさまのお名前のゆえに受け入れる」とはどういうことでしょうか。それは全世界の大王である救い主イエスさまの全権大使、すなわち神の国の代表者としてその子を受け入れ、それにふさわしい扱い方をするという意味です。今、外国から賓客が来日すると、国を挙げて歓迎し、もてなしますね。相手が子どもであってもそのようにせよと、イエスさまはおっしゃいます。

相手が誰であっても見下げたりせず、むしろ尊敬して大切に接する。そういう人は相手を大切にするだけでなく、実は救い主であるイエスさまを、さらにはイエスさまを地上に遣わした天の父なる神さま受け入れ、大切にすることです。

そして、そのような人のことを神さまも大切にし、神の国が実現したときに高い地位に就けてくださいます。

だから、人の上に立って支配することを求めるのではなく、人に仕えることを求めなさいとイエスさまは弟子たちを諭されました。

ヨハネの間違った熱心への指導

ヨハネの熱心
「ヨハネがイエスに言った。『先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです』」(38節)。

人の上に立とうとせず、むしろ仕える人になれというイエスさまの教えを、その後も弟子たちはほとんど理解できませんでした。その一例として、聖書は十二弟子の一人であるヨハネの発言を紹介しています。

イエスさまの12人の弟子たちは、イエスさまから悪霊を追い出したり病気をいやしたりする力を与えられて、イスラエル各地に遣わされたことがあります。そして実際に悪霊を追い出したり病人を癒やしたりしました。

そんな弟子たちと同じようなことをする人たちがいました。「イエスさまの名によって悪霊を追い出す」というのは、イエスさまの権威を使ってそうするという意味です。元々悪霊は天使が神さまに反逆して堕落した存在ですから、人間よりもはるかに知恵があり力もあります。普通ならとても対抗することなどできませんが、バックについておられる方の名前を出して悪霊を脅し、追い出すのです。

ヨハネは、イエスさまのお名前を使って悪霊を追い出していた人に、そのようなことをするなら自分たちのようにイエスさまに正式に弟子入りし、自分たちのようにイエスさまといつも行動を共にすべきだと言いました。ところが、その人はヨハネの言うことを聞き入れようとしませんでした。

そこで、頭にきたヨハネは「だったら、イエスさまのお名前を使って悪霊を追い出したりするな」とその人に命じました。そして、自分はそのようなことをしたとイエスさまに報告したのでした。もちろん、ヨハネは自分が良いことをしたと思っており、イエスさまもそれをほめてくださると期待していたはずです。
ヨハネへの指導
「しかし、イエスは言われた。『やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です」(39-40節)。

イエスさまは、ヨハネが期待したように彼のことをほめず、むしろその態度が誤りだと指導をなさいました。

ヨハネがその人にあのような発言をしたのは、自分を含む12人の弟子は特別な存在であるというプライドがあったからです。特に、ペテロ・ヤコブ・ヨハネの3人は12人の中でも特別扱いされることが多く、イエスさまがヘルモン山の上で姿を変えたときにも、3人だけが同行を赦されました。

そんな特別な、いわば神の国のエリートである自分たちと同じような行動をしながら、しかも自分たちのグループには加わろうとしない人を見て、ヨハネは怒りを覚えてあのような発言をしたのでした。

そしてそれを得々としてイエスさまに報告したということは、「偉くなりたいなら仕える人になれ」というイエスさまの教えをヨハネがさっぱり理解していなかった証拠です。

そこでイエスさまはそんなヨハネの間違ったエリート意識と、排他的な態度をたしなめました。そして、自分たちに反対しないなら、その人は私たちの味方だとおっしゃいました。イエスさまのお名前を使って悪霊を追い出しているということは、その人がイエスさまのことを救い主だと受け入れている証拠です。弟子のグループには所属していませんが、彼らもまたイエスさまを信じる弟子なのです。

イエスさまを救い主だと信じ、愛しているという点では、その人も12人の弟子たちも同じです。ですから、ヨハネが自分のことをさも特別視して、その人よりも偉い存在であるかのように振る舞うのは良くないとイエスさまはおっしゃっています。

確かに12人の弟子たちは、イエスさまが天にお帰りになった後、代理として地上での働きを任せるために選ばれた特別な存在です。しかし、それはイエスさまが人間に対してなさったように他の人に仕える人となるためです。決して他の人に対して偉ぶるためではありません。

ユダヤ人が神さまの民として選ばれたのも、弟子たちが選ばれた理由と同様です。ユダヤ人だけが救われて祝福されるために選ばれたのではなく、ユダヤ人を通して全世界の人々が神さまと出会い、信じて救われ、永遠に祝福されるためです。
弟子たち全体への指導
「まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません』」(41節)。

ヨハネだけでなく、他の弟子たちもプライドの問題を抱えていて、他の人に仕えるようにというイエスさまの教えを理解していませんでした。そこで、イエスさまは12人の弟子たち全員に向けて語られました。

それは、弟子たちがイエスさまを信じているからという理由で、彼らに良くしてくれる人がいたとしたら、神さまは神の国において必ずその人に報酬をくださるということです。

これは12人の弟子たちへの約束でもあります。ヨハネに指導なさったように、イエスさまと寝食を共にする直弟子でなかったとしても、イエスさまを救い主だと信じた人はイエスさまの弟子です。その人たちにペテロやヨハネたち12弟子が親切に接したとしたなら、神の国が実現したときに必ず神さまは報いを与えてくださいます。

だから、変なプライドに邪魔されて自分たちが他の人から特別扱いされることを求めるのではなく、むしろ謙遜になって他の人に仕え、他の人を大切にするようにとイエスさまはおっしゃいました。

つまずかせる者

他人をつまずかせないようにとの戒め
「また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれてしまうほうがよいのです」(42節)。

間違ったプライドにとらわれている人は、他の人から自分がどのような扱いを受けるかを気にして過剰反応します。しかしイエスさまは、むしろ自分が他の人に対してどのように接しているかを気にしなさいとおっしゃいます。

ここでイエスさまがおっしゃっている「つまずかせる」とは、参考資料にも書いたとおり、「他人が信仰を持ったり、信仰を成長させたりするのを邪魔する」という意味です。ヨハネの言動は、他の人の信仰を成長させないどころか、その人がもっとイエスさまのことを深く知ろうとしたり、イエスさまにもっともっと従っていこうとしたりするやる気を奪ってしまうものでした。

イエスさまの弟子ならば、自分の言動が他の人の信仰の邪魔をしていないかいつも注意する必要があるよ、むしろあなた方の言動によって他の人が信仰を持ったり、それを育てたりできるよう励ましを与えなさいと、イエスさまはヨハネだけでなくすべての弟子たちを諭されました。
求められる覚悟
「もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです」(43節)。

他の人の信仰の妨げとならず、むしろ励ましとなれという教えは、できたらやるというようなオプションではありません。必ずしなければならないことだとイエスさまはおっしゃいます。「手を切り捨てろ」というのは、もちろん実際にそのようにせよということではなく、比喩的な表現です。それくらいの覚悟で取り組みなさいという意味です。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.他の人の信仰の成長を助けよう

やる気を引き出す言動を心がけよう

この話をお読みください。
大学生の時、「教育工学」というクラスを受講しました。その最初の授業で教授がおっしゃったのは、「授業は仮説検証の場である」という言葉でした。仮説とは「このような特性を持った子どもに、このような教材を使ってこのような教え方をしたら、このような能力や態度が身につくはずだ」という期待のことです。

そして、実際に授業をやってみて、本当に期待する能力や態度を子どもたちが身につければいいですが、もし身につけられなかったとしたら、仮説を見直さなければなりません。すなわち子どもの特性の捉え方が間違っていなかったか、教材の選定や教え方が間違っていなかったかを再検討して、再びチャレンジするのです。

「仮説検討→実践→評価→仮説再検討→再実践」の繰り返し。これが「授業は仮説検証の場である」という意味です。

もちろん子どもたちに対する愛情とか、教育についての熱心さとかいう感情的な部分は大切です。しかし、同時に「本当に教育的な効果を上げられているのか」ということを冷静に見つめる科学的な視点も大事なのだということをあのクラスで教わりました。

私たちは教師でなかったとしても、他の人への接し方に科学的な視点が必要です。他の人に愛の行動をする際、本当に相手のためになっているか、相手のやる気を引き出しているか、正しい行動を取れるよう導けたか、その人が信仰を持ったり生長させたりできるようになったかどうかを、冷静にチェックする必要があります。そうでなければ、ただの自己満足であり、場合によってはよけいなお世話になってしまいます。

愛は情熱であると同時に、科学です。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
私たちクリスチャンは、自分の言動の動機だけでなく結果にも注意を払う必要があります。

たとえば家族や部下に対して厳しい物言いをするのは、その人に正しい行動をして欲しい、そしてそれによって本当に幸せな人生を歩んでほしいという愛の動機かもしれません。しかし、本当にその人が正しい行動をしようという意欲を持てたかどうか、そして実際に正しい行動ができるようになったかどうかも評価しなければなりません。

場合によっては、かえって相手のやる気を損ねたり、相手の自信を削ぎ落としたりして、逆効果になってしまうことも。もしも望ましい効果が出ていなかったり、逆効果になったりしているとすれば、別の言い方・接し方に変える必要があるかもしれません。

特に信仰の成長に役立つ者となろう

特に私たちクリスチャンに期待されているのは、私たちの言動によって、他の人がイエスさまを信じるようになったり、信仰が成長したりすることです。

相手を一気に変えることはできなくても、望ましい方向に一歩でも進んでいただけるよう、私たち自身の言動を工夫しましょう。

イエスさまとの関係、また教会との関係を表にしたもの(中コミスケール)を紹介します。古参のメンバーさんにはすでにお配りしたものですが、改めて配付します(こちらのリンクをクリックしてください)。

他の人が、この表のマスを、1つでも上あるいは右に進むことができるため、今自分にできることを考えて実践してみましょう。祈ること、笑顔であいさつすること、お茶に誘うこと、集会に誘うこと、信仰に関する本を貸すことなど、今できることは必ずあります。

仕える心を持とう

動機も大切だけれど、結果も大切だということを申し上げました。同時に、私たちは動機にも注意を払う必要があります。表面的には「相手のためだ」と思っていながら、心の奥底には支配欲や傲慢さ、あるいは何でも自分の思い通りにしたいというわがままがきっかけになって行動していることがあるからです。

弟子たちが「天の御国で一番偉いのは誰ですか」とイエスさまに尋ねたのは、純粋に信仰の知識を深めたいという思いからではなく、自分が仲間たちの中で、またすべての信者たちの中で一番になりたい、そして他の人を支配する立場になりたいという権力欲、支配欲から出ていました。

ヨハネの行動も、自分たちは他の奴らとは違うという間違ったプライドから来ていました。

弟子たちが選ばれたのは、イエスさまの代わりに地上で人々に仕えるためです。イスラエルが選ばれたのは、全世界の人々を救いに導くためです。自分たちだけが祝福されるためではありません。

そして、私たちクリスチャンが選ばれ、救われたのも、自分たちだけが安心・安全な人生を手に入れるためではありません。私たちの一挙手一投足、私たちが語る一言一言によって、他の人が慰められ、励まされ、神さまに喜ばれる生き方をしよう、もっともっと神さまのことを知り神さまを愛していこうというやる気が引き出されるためです。

自分の生き方が自分中心になっていなかったか、それをいつもチェックしましょう。そして、自分の中に傲慢さやわがままが見つかったならすぐに悔い改め、自分は神さまや人から仕えられるためではなく、神さまや人に仕えるために存在しているのだということを改めて自覚しましょう。

私たちの言動が、他の人を本当に慰め、励まし、やる気を引き出すことができるものとなりますように。そのことについて、聖霊さまに助けていただけるよういつも祈り求めましょう。

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