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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

実を結ばないいちじくのたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ56

ルカによる福音書13章1節〜8節

(2023年11月19日)

イエス・キリストの「実を結ばないいちじくのたとえ」は、イエスが私たちの心に火をつけて望ましい行動に駆り立てるる偉大な教師であることを教えてくれます。

礼拝メッセージ音声

参考資料

1節の「ピラト」は、ローマから派遣されていたユダヤの総督です(任期:紀元26〜36年)。総督はローマ帝国の属州に置かれて治安維持や裁判を担当し、戦争の際は配下の軍隊を指揮しました。同の時代のユダヤ人哲学者フィロンによると、「ピラトは融通のきかない性格で、とても頑固なばかりか無慈悲でもあった」とのこと。

4節の「シロアムの塔」は、シロアムの池のそばに建てられていたと思われる塔。シロアムの池はエルサレムの南東部にありました。この塔について詳しいことは分かっていませんが、物見櫓のような目的で作られたものだったのかもしれません。

イントロダクション

ウイリアム・アーサー・ウォードという人が次のように言いました。
平凡な教師は、ただしゃべる。
良い教師は、分かりやすく説明する。
優れた教師は、自らやってみせる。
偉大な教師は、生徒の心に火をつける。
イエスさまは私たちにとって偉大な教師です。私たちの心に火をつけ、望ましい行動に駆り立ててくださいます。今回の箇所は、そのことを私たちに教えてくれています。詳しく見ていきましょう。

1.報告とたとえ

ガリラヤ人の処刑

イエスへの報告
(1節)ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。

「ちょうどそのとき」とは、11:14から続く出来事のことです。今回の直前の箇所では、イエスさまが「携挙」について教えておられました。イエスさまが話し終えると、ある人たちがやってきてイエスさまにある報告をしました。

それは、ローマから派遣されていた総督ポンテオ・ピラトが、ガリラヤ人の血をいけにえに混ぜたというものです。これは、ピラトがガリラヤ人たちを処刑したことを表しています。

総督は、ローマ帝国が支配する属州の最高責任者で、戦争の際には軍隊を指揮し、平時には属州の治安維持や裁判を担当していました。
そして、当時のイスラエルには「熱心党」と呼ばれるグループがありました。熱心党は、ローマ帝国からイスラエルを独立させることを目的としていて、そのためには暴力も辞さないという一種のテロリスト集団でした。イエスさまの十二使徒の中にも、シモンという元熱心党員だった人がいます。

おそらくガリラヤ地方からエルサレム神殿に礼拝しに来た人たちの中に熱心党員が紛れ込んでいて、エルサレムで反乱を起こす計画だったのでしょう。それが総督ピラトにバレて処刑されてしまったものと思われます。
第1の問いかけ
(2節)イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。

イエスさまがこのように問いかけたのは、報告をした人たちやそれを聞いていた人たちがそのように考えていたからです。

当時のユダヤ人たちの多くは、「悪いことをすれば神さまのさばきによってひどい目にあう。良いことをすれば神さまの祝福を受ける」と考えていました。いわゆる因果応報の考え方です。これは私たち日本人にもおなじみの考え方ですね。

テロリストたちが殺されたのは、彼らの罪深さの故だと多くの人は考えていました。当時のユダヤ人たちはローマ帝国からの独立を願っていましたが、だからといって暴力的な手段に走るのは正しくないと考えるユダヤ人も多かったのです。
第1の教え
(3節)そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

以前、生まれつき目の見えない人のいやしの話をしました。弟子たちは生まれつきの盲人について、イエスさまに「この人が盲目なのは、この人が罪を犯したからですか、それとも両親の罪のせいですか」と尋ねました。それに対して、イエスさまは「誰か罪のせいではなく、神さまのみわざが現れるためだ」とおっしゃいました。この人の目が見えないことを通して、神さまの素晴らしい働きが明らかになるためだよ、と。

ここでも イエスさまは、因果応報の考え方を否定しておられます。

もっとも、神さまは人間をご自分の子どもとして愛してくださっています。ですから良くないことをして悔い改めないでいると、教育的な指導として苦しみをお与えになることがあります。苦しみを通して自分が間違っていたということを自覚し、悔い改めて欲しいと願っておられるのです。

しかし、苦しみに遭っている人は絶対に悪者で、苦しみを味わっていない人は絶対に良い人だということでもありません。イエスさまは、あなた方があのガリラヤ人のような災難を味わっていないとしても、それでも悔い改めが必要なのだとおっしゃっています。

今回の直前の箇所で、イエスさまは次のように語られました。

(12:58-59)あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません。」

これは、罪を認めて悔い改め神さまの赦しを受け取らないと、世の終わりの最後の審判(白い御座のさばき)で有罪判決を受け、永遠の苦しみという罰を受けることになるよという警告と、だから悔い改めて赦しを受け取りなさいという勧めの言葉です。

ところが、当時のユダヤ人の多くは、ユダヤ人として生まれただけで救いは保証されていると考えていました。外側からくっつく汚れをきよめることには意識を向けても、自分の内面の罪のことは意に介していませんでした。ですから、罪の悔い改めの必要性を感じていなかったのです。

そんな一般的なユダヤ人に対して、イエスさまは3節で「あなたたちにも悔い改めが必要なのだ」と教えていらっしゃいます。

シロアムの塔の事故

第2の問いかけ
(4節)また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。

今度はイエスさまの方から、ある事故について語られます。それはシロアムの塔が倒れて18人が犠牲になった事故です。その人たちは、他のエルサレム市民よりも罪深かったからそんな事故に遭ったのだろうかとイエスさまは問いかけます。
第2の教え
(5節)そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

イエスさまは、ここでも因果応報の考え方を否定なさいました。あなたたちだって悔い改めなければ、永遠の滅びという災難を招くことになるのだよと。だから自分の罪を認めて悔い改め、神さまの赦しを受け取りなさいと。

そして、そのことを教えるために一つのたとえ話を語られます。

たとえ話

実を結ばないいちじくの木
(6節)イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。

果樹園の空いているスペースに別の果樹を植えるというのは、当時よく行なわれていました。このたとえ話ではぶどう畑にいちじくの木が植えられました。ところが、3年経っても実を結びません。イエスさまはそんなたとえ話を語られました。
主人から番人への指示
(7節)そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』

3年間実を結ばないのだから、この先もこの木は実を結ばないだろうとぶどう畑の主人は判断しました。そこで主人は番人を呼んで、こんな役立たずのいちじくは切ってしまえと命じました。実を結ばない木はスペースを無駄にするだけですから、これはもっともな命令です。
番人の願い
(8節)番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。

ところが番人は、もう一年だけ待って欲しいと主人に願いました。聞くところによると、いちじくは肥料がなくても育つそうです。しかしこの番人は、肥料をやってみますと言います。この木を見捨てて切ってしまう前に、できる限りのことをしたいというのです。
来年の処分
(9節)それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」

番人の願いは、来年この役立たずのいちじくが実を結んでくれることです。しかし、手を尽くしても来年実を結ばなかったら、その時に切ることにしましょうと番人は言いました。だから、あと1年待ってくださいというわけです。
たとえ話の意味
このたとえ話は、1-5節の話を説明するために語られたものです。1-5節でイエスさまは、ユダヤ人であっても罪の悔い改めが必要だと教えておられます。

今回の出来事は、紀元29年の秋から冬にかけての時期に起こったと考えられています。イエスさまが公に活動を始めてから3年が経過しています。その間、イエスさまはご自分が人類に救いをもたらすために来た救い主(メシア、キリスト)だということを、言葉や奇跡によって示してこられました。

その結果、イエスさまのことを救い主だと信じたユダヤ人もいました。ところが指導者たちは、イエスさまが神さまの力ではなく悪霊のかしらベルゼブルの力によって奇跡を行なっているのだと言いました。これは国としての公式な拒否です。一般民衆も、イエスさまが行なう奇跡は求めていましたが、イエスさまのことを救い主だと認めて従おうとはしませんでした。

イエスさまは、そんなイスラエルの人々のことを、植えられて3年経っても実を結ばないいちじくにたとえられたのです。全宇宙の主人であり正義である神さまは、ぶどう園の主人が実を結ばないいちじくの木なんか切ってしまえと言ったように、信仰の実を結ばないイスラエルは滅ぼしてしまえとおっしゃるでしょう。

ところが、番人がもう1年待ってほしいと願い、その間できるだけのことをしたいと訴えたように、イエスさまはイスラエルの滅びを望んではいらっしゃいません。できるだけ多くのユダヤ人が救われて罪のさばきを免れてほしいと願っていらっしゃいます。

しかし、神さまの恵みの時はいつまでもは続きません。1年経っても実を結ばなければ、このいちじくの木は切り倒されてしまいます。同じように今後も信仰の実を結ばなければ、イスラエルは神さまの罰を受けることになります。

残念ながら、国としてのイスラエルは信仰の実を結ぶことがありませんでした。そして、イエスさまを拒否したまま十字架につけて殺してしまいました。
その後イエスさまは復活なさいますが、イスラエルへのさばきが実現します。それはこの時から41年後、紀元70年のことです。

一部のユダヤ人が起こした反乱が全国に広がり、ローマ帝国は軍隊をイスラエルに差し向けました。その結果、エルサレムの町と神殿は破壊され、多くのユダヤ人が殺されたり国の外に散らされたりしました。属国という形であってもそれまで存在が赦されていたイスラエルの国が、地上から消えてしまったのです。それからイスラエル共和国が約束の地に建国されるまでの約1900年間、世界中でユダヤ人は他の民族からの迫害に苦しめられることになります。

それどころか、もしも神さまからの罪の赦しを受け取らなければ、将来燃えるゲヘナに投げ込まれて永遠の苦しみという罰を受けることになってしまいます。

だから、そんなことになる前に、今この時に自分が罪人だということを認め、悔い改めてわたしイエスを信じなさい。そして赦しを受け取ってさばきを免れなさいとイエスさまは訴えておられるのです。

国としてのイスラエルが受ける紀元70年のさばきは、もう決定済みで免れられません。しかし、個人個人のユダヤ人は、生きている限り罪の赦しを受け取るチャンスが与えられています。だから今信じてほしい。イエスさまは聞いている人々に語っておられます。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.神との関係を深めよう

罪を認めて悔い改めよう

今回の箇所は、私たちは苦しみに遭っていようがいまいが、みんな罪があって悔い改めが必要だということを教えています。罪とは何でしょうか。聖書には次のように書かれています。

(ローマ14:23)信仰から出ていないことは、みな罪です。

罪とは信仰から出ていないこと、すなわち
  • 神さまの存在を認めないこと
  • 神さまの尊厳を値引くこと
  • 神さまのみこころに従わずに自分勝手に生きること
  • 神さまを信頼せず、その約束を信じないこと
です。この罪を放置していると、正義である神さまからの罰を招くことになります。それは永遠の苦しみという罰です。
赦しの希望
しかし、聖書が私たちの罪を指摘するのは、私たちを落ち込ませて苦しめたり、将来のさばきへの恐れによって萎縮させたりするためではありません。罪が赦される希望があるからです。

この自分の罪を赦すためにイエスさまが十字架にかけられたこと、死んで葬られたけれど3日目に復活なさったこと、これが真実だと受け止め信じるだけで、私たちの罪は本当に赦されます。赦されるどころか、神さまの子どもとされて、永遠に祝福される身分を手に入れることができます。

そして、ここにいる私たちは、すでに罪を認めて悔い改め、罪が赦されるためにイエスさまの十字架と復活を信じました。信じた私たちが罪の故に永遠の刑罰を受けることは決してありません。

そのような希望があるからこそ、聖書は私たちに罪があるという現実を突きつけ、悔い改めるよう勧めるのです。
悔い改めのススメ
それでも日々の生活の中で、罪を犯してしまうことがあります。神さまのみこころにかなわないと知っていながら、自分の感情や都合の方を優先させてしまうことがあります。神さまの約束が信じ切れないで、あたふたしてしまうことがあります。

すると、私たちと神さまとの親しい関係がおかしくなってしまいます。神さまの側ではいつも愛の御手を差し伸べてくださっているのですが、私たちの方が神さまを否定し、神さまから目をそらしてしまうからです。そのままでは、せっかく神さまが与えようとしてくださっている祝福をもらい損ねることになります。

ですから、自分が罪を犯していること、神さまへの真実の信仰から離れようとしていることに気づいたら、すぐにそれを認めて悔い改めの祈りをささげましょう。

赦しを確認して感謝しよう

私たちクリスチャンの罪は、イエスさまの十字架と復活を信じたあの日に、過去の罪も現在進行形の罪も未来の罪もすべて赦されました。ですから、ただ罪を告白するだけで、別に特別な償いをしなくても神さまとの親しい関係を取り戻すことができます。

(第1ヨハネ1:9)もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
神の恵み
聖書全体を貫いているのは、神さまの恵みです。アブラハムも、ヤコブも、ダビデも罪を犯しましたが、悔い改めたとき神さまはその罪を赦してくださいました。

紀元70年にイスラエルの国は滅びてしまいましたが、それでも神さまはイスラエルに対する祝福の約束を取り消しにはなさいませんでした。1948年、あの約束の地に再びイスラエルの国が建国されました。

私たちの罪は赦されます。赦しを信じて受け入れない罪以外、どんな罪でも赦されます。

(ローマ3:23-24) すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
驚くばかりの恵みなりき
世界で最も有名な賛美歌は何か。そう問われれば「アメイジング・グレイス」と答える人が多いかと思います。この賛美歌の歌詞は、ジョン・ニュートンという人が作りました。彼について、Wikipediaでは次のように紹介されています。
ジョン・ニュートンは1725年、イギリスに生まれた。母親は幼いニュートンに聖書を読んで聞かせるなど敬虔なクリスチャンだったが、ニュートンが7歳の時に亡くなった。成長したニュートンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に携わり富を得るようになった。

当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡したといわれる。

ニュートンもまたこのような扱いを拉致してきた黒人に対して当然のように行っていたが、1748年5月10日、彼が22歳の時に転機は訪れた。イングランドへ蜜蝋を輸送中、船が嵐に遭い浸水、転覆の危険に陥ったのである。今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったという。すると流出していた貨物が船倉の穴を塞いで浸水が弱まり、船は運よく難を逃れたのである。

ニュートンはこの日を精神的転機とし、それ以降、酒や賭け事、不謹慎な行いを控え、聖書や宗教的書物を読むようになった。また、彼は奴隷に対しそれまでになかった同情を感じるようにもなったが、その後の6年間も依然として奴隷貿易に従事し続けた。のちに、真の改悛を迎えるにはさらに多くの時間と出来事が必要だったと彼は語っている。

1755年、ニュートンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の献金を重ねて牧師となった。そして1772年、「アメイジング・グレイス」が作詞された。歌詞中では、黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と、それにも拘らず赦しを与えた神の愛に対する感謝が歌われている。
私たちもジョン・ニュートンのように、この自分を赦して救ってくださったイエスさまのことをいつも覚えていましょう。そして、その驚くばかりの恵みに対して感謝をささげ続けましょう。

神が喜ばれることを行なおう

イエスさまは実を結ばないいちじくの木のたとえを語られました。神さまは、私たちが信仰の実を結ぶことを願っていらっしゃいます。私たちが神さまを信頼し、神さまの約束を信じるということです。
約束には命令が伴う
以前も申し上げましたが、神さまの約束には命令が伴っていますし、命令には約束が伴っています。
  • アブラハムは神さまから大いに祝福されるという約束を受けました。その約束には、「私が示す地に行け」という命令が伴っていました(創世記12:1-3)。
  • 出エジプトを果たして約束の地に戻ろうとするイスラエルに対して、神さまは祝福を約束なさいました。その約束には、モーセの律法を守れという命令が伴っていました(申命記11:26-28)。
  • イエスさまのことを3度も知らないと言ってしまうペテロに対し、イエスさまは事前に彼の信仰がなくならないよう祈ったとおっしゃいました。すなわち、ペテロが失敗から立ち直るという約束です。そして、だから立ち直ったら兄弟たちを力づけるようにとお命じになりました(ルカ22:32)。
ですから、神さまを信頼して神さまの約束を信じた私たちも、神さまのみこころを学んでそれを実行しなければなりません。
感動が原動力
しかも、それは単なる義務感からではありません。実を結ばないいちじくは、すぐに切り倒されても文句が言えない存在でした。しかし、ぶどう園の番人はいちじくの木を惜しんで、もう一年待ってくださいと必死に主人に願いました。

神さまは私たちに対しても恵み深くあられます。そして、イエスさまは私たちが罪の罰を受けて滅ばされなくてもいいように、身代わりとして十字架にかかるという大変な犠牲を追ってくださいました。なんという愛、なんという恵み、なんという祝福でしょうか。

そんな神さまの圧倒的な恵み、考えられないような祝福に感動し、感謝するところから神さまに従おうという意欲が生まれます。

クリスチャンで高校生のAさんは、自分の些細な問題点を気にして自分を責めていました。その結果うつ状態に陥って、登校もできなくなってしまいました。しかし、あるクリスチャンから「神さまはあなたのことをどんなふうに評価している?」と尋ねられます。

神さまは御子イエスさまを十字架につけても惜しくないと思われるほどにAさんのことを大切な存在だとおっしゃっています。イエスさまのおかげで、Aさんの罪はすべて赦されています。聖霊さまがAさんを助けて、神さまのみこころにかなう存在になれるよう助けてくださいます。それらは聖書が教えている約束です。その約束を思い描いていると、温かい気持ちがAさんの内側から湧き上がってきました。Aさんは感動のあまりポロポロと涙を流し始めました。
すると、そのクリスチャンはAさんに尋ねました。「じゃあ、それを知ったあなたは何をしなきゃいけない?」 Aさんは心の中で神さまに「どうか教えてください」と祈りながら考えます。そして、こう言いました。「自分に対して『お前はダメ人間だ』とダメ出しするのではなく、『あなたはイエスさまに命がけで愛されている大切な存在だよ』と励ますこと」。

Aさんはそれを実践し始めました。そして、程なくうつ状態からも解放されて学校にも通うことができるようになりました。
あなたに求められていること
今週、イエスさまはあなたにどんな行動をやめてほしいと願っておられるでしょうか。代わりにどんな行動を取ってほしいと願っておられるでしょうか。祈りを通して、聖書の学びを通してそれを受け取り、実践しましょう。

特に、聖書の中にどんな約束が書かれているか探してみましょう。その約束を思い描き、期待し、感動し、聖霊さまによって心に火をともしていただきましょう。そして考えましょう。あなたがその約束を信じるなら、あなたはどんな行動をするはずでしょうか。それからそれを実践しましょう。

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