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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

不正な管理人のたとえ

イエス・キリストの生涯シリーズ61

ルカによる福音書16章1節〜13節

(2023年12月31日)

不正な管理人のたとえはイエス・キリストが語ったたとえ話です。インチキなやり方での蓄財を勧めているかのように読めますが、本当の意味は何でしょうか。

礼拝メッセージ音声

参考資料

6節の「バテ」は液体の容量を表す単位で、1バテは約22リットル。

7節の「コル」は固体や液体の容量を表す単位で、1コルは約220リットル。

9節の「不正の富」とは、「この世の富」「この地上で得た財産」という意味です。

イントロダクション

イエスさまはおっしゃいました。(9節)不正の富で、自分のために友をつくりなさい。いったいイエスさまは、このたとえ話を通して何を教えたいとお思いなのでしょうか。まさか、自分の利益のためなら不正行為をしてもかまわないとおっしゃっているのでしょうか。

1.不正の富で、自分のために友を作れ

たとえ話

弟子たちに対して「も」
(1節前半)イエスは弟子たちに対しても、次のように語られた。

「も」という言葉に注目しましょう。この言葉によって、今回のたとえ話がその前のエピソードの続きだということが分かります。前のエピソードについては、12月17日のメッセージで解説しました。有名な「放蕩息子のたとえ」です。

「放蕩息子のたとえ」、そして同じ時に語られた「いなくなった1匹の羊を探す人のたとえ」や「なくした1枚のコインを探す女性のたとえ」は、何を表していたでしょうか。「人類は罪の故に神さまから離れてしまった。しかし、神さまは人が悔い改めて戻ってくることを喜んでくださる」ということを、イエスさまはこれら探しもの三部作のたとえ話を通して教えてくださいました。
1節の「も」という言葉は、今回の不正な管理人のたとえ「も」、探しもの三部作と同じテーマを扱っていることを予想させます。すなわち、神さまは人の救いを願っていらっしゃるということです。 今回の不正な管理人のたとえも、そのテーマに即して意味を考えなければなりません。

ではたとえ話で何が語られたか、ていねいに見ていきましょう。
管理人の不正発覚
(1節後半-2節)「ある金持ちに一人の管理人がいた。この管理人が主人の財産を無駄遣いしている、という訴えが主人にあった。主人は彼を呼んで言った。『おまえについて聞いたこの話は何なのか。会計の報告を出しなさい。もうおまえに、管理を任せておくわけにはいかない。』

管理人が主人の財産を管理していたのに、その一部を無駄遣いしていました。これは主人の財産を自分のために使う、今で言う業務上横領をしていたのかもしれません。あるいは単にサボってばかりで管理の仕事をちゃんとやらなかった結果、主人の財産を損なってしまったのかもしれません。

いずれにしても、この管理人は主人の信頼を裏切りました。そこで主人は管理人を解雇することにしました。では、クビを予告された管理人はどうしたでしょうか。
管理人の決断
(3-4節)管理人は心の中で考えた。『どうしよう。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力はないし、物乞いをするのは恥ずかしい。分かった、こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、人々が私を家に迎えてくれるようにすればよいのだ。』

懲戒解雇されることが決まった管理人は、仕事を失っても主人以外の人たちに面倒を見てもらえばいいと考えました。具体的に次のような作戦を考え出して実行しました。
小作料の変更
(5-7節)そこで彼は、主人の債務者たちを一人ひとり呼んで、最初の人に、『私の主人に、いくら借りがありますか』と言った。その人は『油百バテ』と答えた。すると彼は、『あなたの証文を受け取り、座ってすぐに五十と書きなさい』と言った。それから別の人に、『あなたは、いくら借りがありますか』と言うと、その人は『小麦百コル』と答えた。彼は、『あなたの証文を受け取り、八十と書きなさい』と言った。

小作農家の人たちは、地主から土地を借りて農業を行なわせてもらう代わりに、決められた量の収穫物やお金(いわゆる小作料)を納める契約をしていました。管理人が行なったのは、この小作料を減らしてやったということです。

こうしておけば、恩を感じた小作農家の人たちがクビになった自分を助けてくれるだろうと管理人は考えたのです。
主人の評価と結論
(8節)主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。

この管理人がやったことは結果的に主人に損害を与えますから、法的にも道徳的にも大問題です。今だったら特別背任罪で罰せられるでしょう。しかし、なんと主人はこの管理人をほめました。ただし管理人の不正行為をほめたわけではありません。主人がほめたのは、管理人の知恵ある行動でした。すなわち、自分がクビになった後のことを見越して行動した、ということです。

そしてイエスさまはこのたとえ話の結論として、「自分と同じ時代の人々の扱いについては、この世の子らは光の子らよりも賢い」と言いました。この世の子らとは神を信じていない不信者のこと、光の子らとは信者のことです。

8節でイエスさまがおっしゃりたいことは何でしょうか。「この世を渡っていく知恵に関してあなたたち信者は不信者より劣っている。だからあなたたちは意識して賢く行動しなければならない」ということです。

では、賢い行動とはどういうものなのでしょうか。それについては次の9節で触れられます。

イエスの命令

不正の富で友を作れ
(9節)わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。

イエスさまはこのたとえ話のまとめとして、1つの命令をなさいます。それは「不正の富で友を作れ」という命令です。そして、「そうするならその友があなたたちを永遠の住まいに招き入れてくれる」と言います。

ここで「不正の富」と呼ばれているものは、「不正な手段で得た財産」のことではありません。これはユダヤ教の教師がよく使った表現で、「この世の富」「この地上で得た財産」のことを指します。私たちが「富」とか「財産」とか聞いたとき普通にイメージするものです。

そして、「富がなくなったとき」と書かれているように、この世の富は永遠には続きません。たとえ死んだ後に莫大な遺産を残せるほどの大金持ちであったとしても、本人は死後の世界までその財産を持っていくことができません。

イエスさまが「永遠の住まい」という言葉を用いられたところに注目しましょう。これは永遠には続かないこの世の富と対比されている言葉です。

永遠の住まいとは、将来この世の終わりの時代に実現する千年王国のことを指しています。聖書では神の国とか天の御国とか呼ばれています。この国は救い主が王として治める理想的な王国で、そこに招かれた人たちは幸せに暮らすことができます。

そして千年王国の住民は、1000年が終わるとさらにすばらしい新しい天と新しい地(新天新地)に住むことが決まっています。新天新地に終わりはありません。そこに招かれた人たちは永遠に続く祝福を楽しみます。

不正な管理人のたとえの前に語られた探しもの三部作のたとえのテーマは、「神は人の救いを願っておられる」ということでしたね。今回のたとえ話も、人の救いについて語られています。

9節でイエスさまが教えておられることは、財産を手に入れるためには不正を働いていいということではありません。「永遠には続かないこの世の財産をどのように使えば、永遠に続く救いを手に入れることができるか。それを、頭を使って賢く考えなさい」ということです。
忠実さについての教え
(10-12節)最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。

ここで「小さなこと」や「他人のもの」とはこの世の財産のことです。そして「大きなこと」や「あなたがた自身のもの」とは永遠の住まいに入ること、すなわち救いです。

ここで語られている教えも、「永遠に続く救いを手に入れるために、この世の財産の使い方に気を配りなさい」ということです。

富に関する大原則

神と富とに仕えることはできない
(13節)どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」

イエスさまは、この世の財産の使い方を考える上で大切な原則を語られます。それは「私たちは神と富とに、同時に仕えることはできない」ということです。

もしも、この世の富の方を神さまにお仕えすることよりも重視してしまうなら、それは神さまへの信仰を捨ててお金を礼拝すること、すなわち偶像礼拝と一緒です。
では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.まことの友との関係を深めよう

まことの友とは誰か

9節でイエスさまは、「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」とおっしゃいました。そうするならば、友となってくれた人は私たちを永遠の住まい、すなわち神の国に招き入れてくれます。

別の箇所でイエスさまは次のように語られました。(ルカ12:4)わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。

イエスさまは私たち弟子、すなわちイエスさまのことを救い主と信じた者たちのことを友と呼んでくださいました。9節で言われている「友」とは、イエスさまのことです。

イエスさまが本来神さまの敵であった私たちのことを友と呼んでくださるようになったのは、私たちの罪が赦されて神さまとの敵対関係が終了したからです。私たちは神さまに呪われ罰せられる者ではなく、愛され祝福される者と変わりました。この劇的な立場の変化は、私たちがイエスさまの「恵みの福音」を信じたときに起こりました。

恵みの福音とは「この私の罪を赦すために、イエス・キリストは十字架にかけられた。イエスさまは死んで葬られ、3日目に復活なさった」ということです。これが真実だと受け入れ信じたとき、私たちの罪は本当に赦され、それどころか神さまの子どもとされました。イエスさまはそんな私たちのことを友と呼び、仲良くしてくださいます。

まことの友がしてくれることは何か

イエスさまを信じた私たちにとって、イエスさまはまことの友です。そして9節に書かれているように、友であるイエスさまは私たちを永遠の住まいに招いてくださいます。

イエスさまを信じた私たちにとって、人生はこの地上で終わるものではありません。死んだ後も永遠に祝福された状態で続きます。しかも、先に行けば行くほどその祝福は素晴らしいものになっていきます。

私たちが死んで復活した後に入る千年王国の祝福については、旧約聖書の預言者たちがさまざまに描写しています。ここではイザヤの預言を3つ紹介します。
平和
(イザヤ2:3-4)多くの民族が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。」それは、シオンからみおしえが、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。
  • 千年王国の王は救い主イエスさまです。その支配はイスラエルだけでなく全世界に及びます。その結果、戦争や紛争が無くなって武器が不要になります。
エデンの園時代の自然界の回復
(イザヤ11:6-9)狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
  • この宇宙が創造されたばかりの時代、地上の自然はこのような状態でした。しかし、被造物の管理者であるアダムが堕落したときに、被造物も一緒に呪われてしまいました。千年王国が実現すると、呪いが取り消されて被造物がかつての姿を取り戻します。

エドワード・ヒックス「平和な王国」
(画像引用:Wikipedia
長寿
(イザヤ65:19-22)わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
  • 千年王国で信者は死にません。
  • 千年王国時代に生まれた人の中には、イエスさまを信じず従わない人もいます。その人たちでも100歳までは長生きします。
そのようなすばらしい王国に私たちは招かれています。そしてイエスさまは私たちを仕方なく招くのではなく、積極的に招きたいと願ってくださっています。

まことの友を作るためにすべきことは何か

すばらしい千年王国に招かれるために、今回のたとえ話は私たちに何を勧めているでしょうか。それは、私たちに与えられている財産を使ってイエスさまとの友情を深めるよう努力することです。

といっても、どこかのカルト教団のように「だからあなたは自分に私有財産が認められているなどと思ってはいけません。財産はすべて教団にささげなさい」などと命ぜられているわけではありません。

自分や家族の楽しみのために財産を使っていいのです。将来に備えて貯蓄してもいいのです。
持っているものの使い方
財産は私たちに属するものですが、同時に上手に管理するよう神さまからゆだねられたものでもあります。ちょうど、資産家が管理者に自分の財産の管理を任せているようなものです。神さまが守ってくださるのだからといって、あの放蕩息子のように今持っている財産を湯水のように使うのは間違いです。

財産だけではありません。他にも様々なものが私たちにゆだねられています。たとえば時間、能力、経験、資格、興味関心などです。それらが私たちのものなのであれば、どんな使い方をしようが自由です。しかし、ゆだねられたものなのであれば使い方を考えなければなりません。

それらをどんなふうに使えば、父なる神さま、イエスさま、聖霊さまとの関係が深まるでしょうか。逆にどんな使い方をすると神さまとの関係が希薄になってしまうでしょうか。

友だちが嫌がることをしてしまうと、友だちとの関係は切れてしまうでしょう。逆に友だちが喜ぶこと、友だちの信頼に応えるようなことをすれば関係が深まるでしょう。まことの友であるイエスさまとの関係を深める方法も同じです。三位一体の神さまが何を喜ばれ、何を好まれ、何を求めておられるのか。それを学んで実行することが、イエスさまとの関係を深めることになります。
たとえば
自分にゆだねられているものを使って神さまが喜ばれることをするとは、たとえばこんな行動です。
  • 救われる人が一人でも多く起こされるよう、伝道団体に献金する
  • 生活に困っている人のために、炊き出しのボランティア活動に参加する
  • 無責任な噂話に加わらず、むしろ他の人の良いところを見つけて別の人に話す。
  • 日本や世界の政治家が適切な政治を行なえるよう祈る
  • 拾った財布を正直に交番に届ける
もちろんこれだけではありません。いつもイエスさまが喜ばれる行動は何か考え、実行しましょう。
確信と平安
では逆に、私たちがイエスさまの喜ばれる生き方を目指そうとしなかったらどうなるのでしょうか。

神さまは、私たちがいったん恵みの福音を信じて救われたなら、その後どんな生き方をしようとも救いを取り消しにするようなことはなさいません。たとえイエスさまが喜ばれない生き方を続けたとしても、あなたがすでにクリスチャンなら将来千年王国に招かれることが決まっています。

しかし私たちがイエスさまとの友情を深める生き方をするとき、私たちは自分が確かに神さまに愛されているという確信を得られます。そして、今も死んだ後も永遠に神さまに守られ祝福されるという確信を深めることができます。

というのも、聖書は私たちが神さまの喜ばれる行ないをするならば、それがどんなに些細なものであったとしても神さまは決して忘れないと教えているからです。そして、千年王国において必ず報いを与えてくださると約束されています。
神以外のものを神としない
そしてイエスさまは、私たちは神と富とに仕えることができないとおっしゃいました。

私たちが自分に与えられているものを使ってイエスさまとの関係を深められるような行動をするためには、持っているものに対する執着心を捨てなければなりません。お金にしても時間にしても仕事にしても人間関係にしても、「これは自分のものだ」という執着があると神さまとの関係を深めることのために使うことができなくなってしまいます。

何かに執着することは、それが神さま以上に大切なものになっているということです。財産であれその他のものであれ「これさえあれば大丈夫」「これがなければどうしようもない」と思っているものが、神さま以外にないでしょうか。

使徒パウロは言いました。(ピリピ4:12-13)私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

神さまを信頼し、神さまとの関係がしっかりとしていること。それによって、財産があっても道を踏み外さず、財産がなくても慌てふためかず、いつもどんなときも「絶対大丈夫」という平安と希望に満たされながら生きていくことができます。

私たちは神さま以外のものを神さま以上に信頼しないようにしましょう。そして、「これは自分のものだ」という執着心から解放されて、神さまとの関係を深めるためならば自由に使うことができる心を持ちましょう。
ゆだねられた言葉の使い方を考えた例
この話をお読みください。
アメリカの大学教授の話です。この教授の授業は厳しいことで有名でした。教授は、各年度の最初のクラスの時に、受講生たちにこう言ったものです。

「私は勉強しない奴らは好きではない。だから、全力を尽くしてがんばることだ。私は君たちに課題を与える。君たちのすべきことは、それを解決することだ。念のため言っておくが、君たちのうち50%は最終試験をパスしないだろう。それが君でないように気をつけたまえ」。そして、その通り、毎年半数の学生が落第していました。

さて、この教授がクリスチャンとなりました。そして、キリストは、神の子どもたちの可能性を信じてやまないお方だということを聖書から学びます。私たちは神の子ですから、父なる神さまにならうものでなければなりません。また、自分の信仰を言葉で告白することの大切さも教会で学びました。そこで、この教授は、年度の始めに語る受講生たちへの激励をこんなふうに変えました。

「私は、君たちのすべてが最終試験にパスすることを望んでいる。君たちがパスするのを見るのが私の仕事だ。課題は難しい。しかし、私と君たちとが協力するならば、このクラスのすべての学生は試験にパスできるはずだし、多くを学べるはずだ。さあ、一緒にがんばろう!」

結果はどうなったと思いますか? 教授の側では採点基準を少しも変えなかったのに、なんと、すべての学生が合格したのです!
(当サイト「ショートエッセイ」より)
助けを求める祈り
祈りましょう。
  1. 聖霊なる神さまが私たちに、神さま以外のものに執着しない自由な心を与えてくださいますように。
  2. それによって、私たちが神さまの喜ばれる行動を賢く選ぶことができるように造り変えられますように。
  3. そして、友であるイエスさまとの関係がますます深まりますように。
  4. その結果、将来神の国に入ることができ、そこで大いに祝福されるという確信が深められますように。

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