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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

いのちに至る生き方

イエス・キリストの生涯シリーズ27

マタイによる福音書7章13節〜20節

(2023年4月23日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

12節は「黄金律」と呼ばれる教えです。2021年6月6日に取り上げていますので、今回はスキップします。

イントロダクション

ここのところ、いわゆる山上の説教(山上の垂訓)と呼ばれる一連のメッセージを取り上げてきましたが、今回がまとめの部分です。一緒に交読しませんでしたが、最後の29節まで解説します。

ここでイエスさまは2つのものを対比しておられます。そして、イエスさまは一方を評価し、もう一方を選ばないよう勧めています。また、評価した方には祝福を約束していますが、もう一方はその逆に……。

もちろん、私たちは祝福を刈り取りたいですね。では、イエスさまが評価なさる側とはどういった生き方なのでしょうか。 今回の箇所では2つの生き方が対比されていますが、それが27節までに4回繰り返されています。順に見ていきましょう。

1.2つの生き方

狭い門と広い門

13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。
14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。
「狭き門」といえば、特に受験シーズンによく聞かれる言葉です。ただ、それはイエスさまがおっしゃる狭き門とは意味が異なります。受験などでの狭き門は、みんながそこに入りたがるため、競争率が高くなって入りづらくなっている状態を指します。一方、イエスさまがおっしゃる狭き門は、ほとんどの人が評価せず無視してしまうような生き方のことです。

当時のパリサイ人たちは、救いについて次のように教えていました。曰く、ユダヤ人として生まれたら、それだけで救いは確定している、と。それくらい広い門なのです。

しかし、イエスさまはパリサイ人であるニコデモにおっしゃったことがあります。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。

神の国と天の御国は同じものです。将来救い主が地上に実現する理想的な王国、いわゆる千年王国のことを指します。「神の国を見る」とは神の国に入ること、すなわち救われるということと同じです。

そしてイエスさまはニコデモに、十字架につけられる救い主を信じることによって、人は救われるのだとお教えになりました。たとえユダヤ人であっても、罪のあるままでは神さまに受け入れられ、天の御国にはいることができません。

だから、救い主が十字架にかかって、罪人の身代わりとして罪の罰を受けなければなりません。そして、自分の罪を取り除いてくださる救い主を信じることによって、本当に罪人の罪は赦され、罪の無い者として神さまに受け入れられ、救われるのです。

ユダヤ人として生まれたらすでに救われているとしたら、自分の罪を悔い改める必要はありません。罪を取り除く救い主も必要ありません。だから、罪を取り除く救い主を信じなければ救われないという教えは、パリサイ人を始めとする多くのユダヤ人には取るに足りない教えに思えます。

また、自分の罪を認めることは、とても痛いことです。喜んでそうしたいと思う人はいません。

だから狭い門なのです。

良い木と悪い木

15 偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です。
16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。
17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。
18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。
19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。
20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。


古今東西、多くの自称預言者が登場してきました。彼らが本物かどうかを見分ける方法の一つは、その人が預言したことがすべて完全に実現したかどうかです。真の預言者であるなら、ただの1つも預言が外れてはなりません。これは申命記18:22に書かれています。

そして、もう一つの見分け方が、その生き方を見るということです。神さまの預言者にふさわしい生き方をしているでしょうか。

現代の預言者や現代の使徒を自称しながら、贅沢な暮らしをし、異性を侍らせ、信徒を高圧的に支配し、法律やマナーを無視した生き方をしているなら、疑わしいと言わざるを得ません。
パリサイ人たちも、また教会時代に登場する偽預言者・偽教師たちも、狭い門ではなく広い門の教えを広めようとしました。自分の罪を認めなくても済む教え、あるいは自分が行ないによって救いを達成できるという教え、すなわち自分のプライドを満足させてもらえるような教えを広めるのです。私たちはその行ないを見て、彼らが本物かどうかを評価しなければなりません。

天の御国に入れる人と入れない人

21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
22 その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
23 しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』


救い主を信じることによって救われ、将来天の御国に入ることができると申し上げました。しかし、ただ口先だけで「主よ、主よ」と言えば信じたことになるかといえば、そうではないとイエスさまはおっしゃいます。仮に、イエスさまのお名前を使って奇跡を行なったとしても、だからといってその人が救われている保証にはなりません。

イエスさまは、天の父なる神さまのみこころを行なう者が救われ、天の御国に入るとおっしゃいました。

では、神のみこころを行なうとはどういう意味でしょうか。イエスさまが十字架にかかるまでの時代、ユダヤ人にはモーセの律法が与えられていました。モーセの律法を実践することが神さまのみこころです。

ただ、山上の説教でイエスさまが教えたとおり、表面的に命令を行なえばそれで事足りるわけではありません。心が伴っていなければならないのです。たとえ実際に殺人を犯していなくても、心の中で人を怒ったりバカにしたりしただけで(つまりその人の人格を否定しただけで)、殺人を犯したのと一緒だとイエスさまはおっしゃっています(マタイ5:22)。

3月12日のメッセージで、ユダヤ人にモーセの律法が与えられた目的の一つは、「自己救済は無理だと自覚させ、恵みを信じる信仰よる救いに導くため」だと申し上げました。一生懸命誠実に神さまの命令を守ろうとすると、自分の不十分さに直面させられ、「自分は自分の正しさによっては到底救われることができない」という一種の絶望を味わいます。その結果として、救い主が身代わりとなってくださることによって与えられる、一方的な罪の赦しを受け取ることができるようになるのです。

ですから、天の父なる神さまのみこころを行なう者が救われるとは、自己救済をあきらめて、救い主による一方的な赦しを受け入れるということを意味します。

そのようにして救い主を信じた人は、ただ単に口先だけで「主よ、主よ」と唱えるだけの人にはなりません。救い主に対して大きな感謝を抱いていて、いつも心からの礼拝をささげているため、救い主と個人的な関係を持っているからです。ですから、世の終わりの時に「お前なんか知らない」と救い主に言われて天の御国から追い出されるようなこともありません。

賢い人と愚かな人

24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。
25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。
26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。
27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
ここで砂と言われているのは、乾燥した地域でよく見られるワジと呼ばれる川の川底を指します。ワジは普段は水が流れていません。地面が平らで岩地に比べて柔らかなので、簡単に家を建てることができます。

しかし、上流の山岳地帯に雨が降ると一気に水が流れてきます。その鉄砲水は、家など簡単に流してしまうほどのパワーがあります。

ですから、それを知っている人はワジに家を建てることなどしませんが、ワジの恐ろしさを知らない素人キャンパーなどは、安易にテントを張ってしまい、毎年のように犠牲者が出ているとのことです。実は、砂漠では喉が渇いて死ぬ人よりワジで溺れ死ぬ人の方が、数が多いのだとか。

イエスさまは、みことばを聞いても実践しようとしない人は、ワジに家を建てるに等しい愚かなことだとおっしゃっています。みことばを聞いて行なうとは、狭い門から入ること、すなわち自分が罪人であることを謙虚に認め、救い主であるイエスさまを信じ、神さまがくださる一方的な罪の赦しを受け取りながら生きることです。

権威ある教え

28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。


これで山上の説教が終わりました。人々はイエスさまの教えが律法学者たちの教えとはまったく異なるので驚きました。

当時の律法学者たちは、「この律法に関して、A先生はこう解説している。またB先生はこう教えている。そしてC先生はこう語っている。だから律法のこの箇所はこういう意味だ」というふうに、昔の学者の教えを引用する形で人々を教えていました。

ところがイエスさまは、「私はこう言います。このようにしなさい」というふうに教えました。人々は、まるで神ご自身が語っておられるかのような、その権威ある教え方に驚いたのです。
2つの道
イエスさまは権威者としてユダヤの人々に語りかけました。その結果、人々は2つの生き方を選ぶよう迫られました。イエスさまの権威を認め、イエスさまが勧める狭き門から入る生き方、すなわち罪を認めて神さまの恵みを信じる生き方を選ぶのか、それともイエスさまの権威を無視し、その教えを退けるのか……。こうして、ユダヤ人は2つの道に分けられることになりました。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスを信じる生き方を選び続けよう

実を結ぶことを目指そう

山上の説教でイエスさまがおっしゃっているのは、モーセの律法を、心をこめて実践しなさいということです。

聖書を創世記から順に読んでいくと、神さまが人間に求める責任、すなわち神さまの人間に対する命令は時代によって異なることが分かります。たとえば何を食べていいか。
  1. アダムが創造されたとき、人間はエデンの園の中央にある木の実以外、どんな植物を食べても構いませんでした。ただし、この時代は人も動物も死ぬことがありませんでしたから、当然肉食は想定されていません。
  2. アダムが罪を犯してエデンの園を追い出された後、人も動物も死ぬようになりましたが、それでもまだ肉食は禁止です。
  3. ノアの洪水後は、動物の肉を含めて何を食べてもよくなりました。ただし、血を食べるのは禁止です。すなわち、血をそのまま飲むのはもちろん、調理しないで生肉を食べるのはNGということです。
  4. 出エジプト後にモーセの律法が与えられると、ユダヤ人にはさまざまな食物規定が与えられました。肉は完全に血抜きすること、獣の肉は蹄が分かれていて反芻する動物に限ること、魚はえらと鱗があるもののみ、虫はイナゴのみ、鳥なら猛禽類は禁止などです。ただし、ユダヤ人以外の民族(異邦人)に関しては、引き続きノアの洪水後の命令が有効でした。
  5. イエスさまが十字架にかけられると、モーセの律法は目的を達成して廃棄されました。そして、新しく与えられたキリストの律法では、ユダヤ人も異邦人も何を食べてもよくなりました(ローマ14:20など)。ただし、食べるにも飲むにも何をするにも、神さまの栄光を現すために行なわなければなりません(第1コリント10:31)。
イエスさまが山上の説教を語られたときは、イエスさまはまだ十字架にかけられていませんから、まだユダヤ人はモーセの律法を守る義務がありました。ですから、イエスさまはユダヤの人々にモーセの律法を守るようお求めになったのです。

しかも、パリサイ人たちのように、教えを表面的に守っていればそれでOKというわけではありません。イエスさまは、どんな心で実践するかが大切だとおっしゃっています。
この話をお読みください。
昔、横山幹雄牧師(となみ野聖書教会)が語ってくださった言葉が心に残っています。それは、「何が罪かを考えるより、どうしたらイエスさまに喜んでいただけるかを考えましょう」という言葉です。

何が罪かばかり考える生き方は、「どうやったら神さまに叱られないで、しかも自分の好きなことをやることができるだろうか」という、なんだか神さまの目を盗むような生き方につながりかねません。そのような態度は不健全であって、神さまとの良い関係を育てないどころか、むしろおかしくしてしまうでしょう。

川端光生牧師(キリストの栄光教会)が、著書「理屈っぽい人のQ&A要点ノート」の中でこんなエピソードを書いておられます。ある人が川端先生にこう尋ねました。「姦淫は罪ですね?」

先生はこう答えます。「その通り、妻以外の女性と関係を持つことは罪です」。

するとその人は重ねてこう尋ねました。「じゃあ、どうしようもない状況で関係を持ったとしたらどうですか? それでも罪になるのですか?」

川端先生は著書の中でこうおっしゃっています。「もし私が『どうしようもない状況ならしかたがありませんね』と答えたなら、きっとこの人は自分でそのどうしようもない状況を作り出して、姦淫に及ぶつもりだったのだろう」。

もしそういう心で「罪を犯さないようにしよう。いったい何が罪なのだろうか」と考えたとしても、すでにその人の心は神さまの方を向いていません。神さまとの関係が、最初からおかしくなってしまっています。だからすでに罪を犯しています。

使徒ヨハネが手紙の中に記しています。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません」(第1ヨハネ5:3)。何が罪か考えることも大切ですが、それ以上に、どうすることが神さまを愛することなのか考えるようにしましょう。そしてそのためにも、自分がいかに神さまに愛されているかを考えましょう。
(当サイト「ショートエッセイ」より)
今の時代の私たちクリスチャンには、モーセの律法を守る義務はありません。しかし、新約聖書に記されている使徒たちの教えを守ることが求められています。ですから、私たちも聖書を通して明らかにされている神さまの教えを熱心に学んで、心をこめてそれを実践しましょう。

赦されていることをいつも感謝しよう

私がまだ東京に住んでいた頃、たびたびクリスチャンに対する悪口を聞きました。それは、クリスチャンは独善的であるという言葉です。自分たちだけが正しくて、クリスチャンではない人たちは邪悪であるという態度が鼻につくというのです。

また、今でもたまにメールをいただいて、教会の中に聖書の言葉を使って他の人の足りないところを指摘して批判する人がいて、とてもつらいという相談を受けることがあります。

パリサイ人たちは、自分たちはきよくて正しいため、悔い改める必要などないと考えていました。そして、民衆を見下していたのです。イエスさまはそのような態度をことのほか嫌われました。

私たちが神さまの命令を忠実に、そして誠実に守ろうとすると、私たちは自分がいかに不完全かということを思い知らされます。神さまの要求水準があまりにも高いからです。先週取り上げた「目の中の梁」のたとえが示すとおり、私たちには他の人の問題をあげつらって批判できるような資格はないと思わざるを得ません。

そんな私たちの罪や不完全さが、イエスさまの十字架によって完全に赦されているということは、何とありがたいことでしょうか。私たちは赦されているという事実を、いつも忘れないでいましょう。そして、そのことをイエスさまに感謝しましょう。

赦されているという感謝を私たちが日々深めていくならば、他の人への接し方もまろやかなものとなるでしょうし、神さまにもっと忠実に従っていきたいという思いも湧き上がってくることでしょう。

イエスに信頼し続けよう

私たちと神さま、そして私たちと他の人との関係は、自分がどれだけ神さまに愛されているか、そして、どれだけの罪を赦されているかを自覚しているかにかかっています。

私たちは自分自身の正しさによって救われることは決してありません。私たちが救われるのは、神さまが私たちを一方的に赦し、受け入れ、愛し、祝福してくださるという神さまの恵みによります。そして、十字架にかかり復活なさったイエス・キリストによって罪が赦されたということを信じる信仰によって、実際に救いが私たちのものとなります。
悪魔はいつも恵みではないものを用いて、私たちをイエスさまに対する信仰から引き離そうとします。すなわち、私たちの行ないの正しさによって私たちは救われたり、私たちの価値が決まったりするという嘘です。

その嘘に引っかかると、私たちは神さまに対する感謝を忘れたり、他の人に対して傲慢な態度を取ってしまったり、あるいは自分なんかダメだという自己卑下に苦しんだりするようになります。

救い主イエスさまは十字架にかけられ、死んで葬られ、3日目に復活なさいました。それは歴史的な事実です。そしてその事実によって、私たちの罪はすべて完全に赦されています。赦しが実感できないときがあったとしても、それでも自分は赦されており、神さまに愛されているのだということを信じ続けましょう。

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