本文へスキップ

礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

永遠のいのちに至る食べ物

イエス・キリストの生涯シリーズ36

ヨハネによる福音書6章22節〜33節

(2023年7月2日)

礼拝メッセージ音声

参考資料

22節の「その翌日」とは、五千人の給食の奇跡があった日の翌日です。そして、その日の未明、イエスさまは湖上を歩いて弟子たちの舟に乗り込まれ、ガリラヤ湖西北岸のゲネサレ付近に上陸なさいました。

22節の「湖の向こう岸」は、ガリラヤ湖北東岸にあるベツサイダ付近です。

23節の「ティベリア」は、ガリラヤ湖西岸の町。

24節の「カペナウム」は、ガリラヤ湖西北岸の町。イエスさまがガリラヤ伝道の拠点としておられました。
26節の「しるし」は、イエスさまが救い主だということを示す証拠としての奇跡のこと。

27節の「人の子」とは、元々は人間のこと。特に、イエスさまはご自分のことを「人の子」と呼ばれました。預言者ダニエルは救い主の幻を見せられたとき、この方のことを「人の子のような方」(ダニエル7:13)と表現しました。

31節の引用は、ネヘミヤ9:15、詩篇78:24、詩篇105:40などの要約です。

イントロダクション

今回の記事は、五千人の給食の奇跡を体験した人々が、イエスさまを追いかけてきたところから始まります。この記事を通して、イエスさまが私たちの必要に応えてくださるお方だということを学び、大いに励まされましょう。

1.五千人の給食を体験した群衆との対話

追いかけてきた群衆

五千人の給食の翌日
「その翌日、湖の向こう岸にとどまっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた」(22節)。

「その翌日」というのは、五千人の給食の奇跡が起こった日の翌日です。あの奇跡の後、イエスさまは弟子たちだけで湖の反対側、すなわちゲネサレ方面に渡らせ、ご自分は群衆を解散させると、祈るために一人で山に登られました。この奇跡については、前々回のメッセージで取り上げました。
そして、夜明け前、イエスさまは湖の上を歩いて弟子たちの舟に向かわれます。これは前回のメッセージで解説しました。そして、一緒にゲネサレ付近に上陸し、その後カペナウムに向かいました。

解散した群衆は、弟子たちだけが舟で渡っていったことと、イエスさまが山に向かわれたということは見て知っていました。
湖を渡る群衆
「すると、主が感謝をささげて人々がパンを食べた場所の近くに、ティベリアから小舟が数艘やって来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを捜しにカペナウムに向かった」(23-24節)。

やがて群衆は、弟子たちだけでなくイエスさまもいつの間にかその近くからいなくなったことに気づきました。そこで、ティベリアからやってきた舟に乗り込んで、イエスさまが拠点にしていたカペナウムに向かいました。

舟に乗って移動したのは、五千人の給食を体験した1万人以上の群衆全員ではなく、もちろんその一部の人たちだけでしょう。
イエスへの問いかけ
「そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。『先生、いつここにおいでになったのですか』」(25節)。

群衆は、イエスさまが夜のうちに湖の上を歩いて移動なさったことを知りません。そこで、いつの間にこちらに渡ってきたのかと尋ねました。ところが、イエスさまはその質問にはお答えになりません。

イエスと群衆の問答

群衆がイエスを探す動機
「イエスは彼らに答えられた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(26節)。

イエスさまは、群衆が自分のことを探していた動機を指摘なさいました。それは、五千人の給食の奇跡を体験することで、イエスさまのことを聖書が教える救い主だと信じたからではありません。イエスさまについて行けばいつでもパンがただで手に入ると思っているからです。

この頃のイスラエルは、ローマ帝国の属国でした。そして、当時のユダヤ人の多くは、イスラエルがローマ帝国から独立することを望んでいました。そして、旧約聖書が登場を約束している救い主が、神の敵を一掃して理想的な王国、神の国を地上に実現するという預言に注目して、ローマ帝国からの解放者としての救い主の登場を待ち焦がれていました。

しかし、神の国に入るためには、人間の罪の問題が処理されなければなりません。罪があるままでは、正義である神さまの敵として滅ぼされる側になってしまいます。そこで、旧約聖書は、救い主はまるで犠牲の子羊のように罪人の身代わりとして苦しんで死ぬことも預言しています。救い主がそうすることで、人から罪が取り除かれ、神の国の市民権を手にすることができます。

ところが、当時のユダヤ人の多くは、自分たちは神の民であって罪はないと考えていました。ですから、専ら政治的解放者としての救い主を求め、罪からの解放者としての救い主など求めていませんでした。

それに加えて五千人の給食を体験した人々は、イエスさまは自分たちをいつでも満腹にさせてくれると期待しました。もっとパンをくれというわけです。
永遠のいのちに至る食べ物
「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです』」(27節)。

ユダヤの聖書の教師は、生徒がすでに知っている事柄、興味を持っている話題から初めて、真理を教えようとしました。イエスさまも、人々が興味を持っていた食べ物の話から真理を教えようとしておられます。

イエスさまが群衆に知ってほしいのは、次の3つです。
  1. 当時のユダヤ人が持っていた、自分勝手な救い主像を手放すこと
  2. 代わりに、聖書が教える救い主像を獲得すること
  3. イエスさまこそその救い主だと信じること
群衆の問いかけ
「すると、彼らはイエスに言った。『神のわざを行うためには、何をすべきでしょうか』」(28節)。

イエスさまが語った言葉に、群衆は興味を引かれました。「いつまでもなくならない食べ物」というワードに魅力を感じたのです。

彼らの耳には、「永遠のいのちに至る」という部分は届いていません。永遠のいのちを手に入れるということは、罪を赦していただき、神の国に入る資格を手に入れるということです。人類にそのような永遠のいのちを与えるため、イエスさまは救い主として地上に来られました。

ところが、彼らの関心はあくまでも自分たちのおなかを満たしてくれる食べ物です。しかも、決して無くなることがない食べ物。五千人の給食の奇跡の時、イエスさまや弟子たちの手元でどんどん食べ物が増えていきました。そんな便利な食べ物があればぜひ欲しいというわけです。

イエスさまは「いつまでもなくならない食べ物のために働け」とおっしゃいました。そこで群衆は、具体的に何をすればそういう便利な食べ物が手に入るのかと尋ねます。
イエスを救い主と信じよという勧め
「イエスは答えられた。『神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです』」(29節)。

「神が遣わした者」とは、救い主のことです。イエスさまこそ、聖書が教える救い主だと信じることによって、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物が手に入ります。すなわち、罪を赦され、救われて、将来神の国が実現したときにそこに住む権利を手に入れることができます。
しるしを求める群衆
「それで、彼らはイエスに言った。『それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。「神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた」と書いてあるとおりです』」(30-31節)。

群衆は、「もっと奇跡を見せてくれ」、つまり「もっと食べ物をくれ。そうしたら信じてやる」と言いました。モーセがイスラエルの民に天からマナを降らせて与えたようにしてくれというわけです。
しかし、つい昨日、彼らは驚くべき奇跡を目撃したではなかったのでしょうか。それでも彼らはイエスさまを罪からの救い主だとは信じません。そうしてさらなる奇跡、つまり食べ物を要求します。群衆の興味は、罪からの救いではなくあくまでも食べ物にあります。

それはまるで、出エジプトを経験した民が、10の災害、海が真っ二つに裂ける奇跡、岩から水がほとばしり出る奇跡、そしてマナの奇跡を体験したのに、問題にぶつかると神さまに信頼せず、「エジプトに帰りたい」などとつぶやいたのに似ています。

信じる心がなければ、人はどんな奇跡を見せられても神さまに従おうとしません。26節でイエスさまが「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」とおっしゃったとおりです。
永遠のいのちを与える神からのパン
「それで、イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです』」(32-33節)。

イエスさまはあきらめることなく群衆に語りかけます。イエスさまが語っている天からのパンとは、神さまが人類に与えてくださる救い主です。そして、その救い主は罪の問題を処理することで、人に永遠のいのちを人に与え、その人が復活して神の国に住めるようにしてくださいます。

その後の展開

離れ行く群衆
この後もイエスさまと群衆の問答は続きます。結局、群衆はイエスさまの教えを理解できませんでした。イエスさまは単なる人間であって、自分たちが期待している救い主、つまりいつでもパンを与えてくれて満腹させてくれる救い主ではないと結論づけてしまったのです。
離れ行く多くの弟子たち
それどころか、十二使徒以外の弟子の中にも、イエスさまを見限って出て行ってしまう人たちが現れました。それは、イエスさまが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(54節)などとおっしゃったからです。

このたとえの言葉は、イエスさまが間もなく十字架にかかることで、全人類の罪が赦されるようにしてくださるということを知っていればよく理解できます。特に私たちは聖餐式の意味を知っていますからよく分かります。

しかし、救い主が十字架にかけられなければならないと信じない人にとっては、この言葉はさっぱり訳が分かりません。それどころか、非常にグロテスクに響きますね。そこで、多くの弟子たちがイエスさまの元を去ってしまいました。
留まった弟子たち
十二使徒もイエスさまの今回の教えをすべて理解できたわけではありません。しかし、彼らはイエスさまこそ救い主だという信仰を手放しませんでした。そして、その後もイエスさまと寝食を共にします。

ルカ10章には、今回の出来事から約半年後、イエスさまが70人の弟子たちをイスラエル各地に派遣して伝道させたという記事が載っています。また、ペンテコステの出来事の時、120人ほどの弟子たちが聖霊さまに満たされました。
ですから、十二使徒以外にもイエスさまの元を離れていかなかった弟子たちがいたということです。イスラエル全体、あるいはローマ帝国全体の人口からすれば決して多い数ではありませんが、やがてイエスさまを信じるこの少人数の人々が聖霊さまに満たされ、大胆に伝道していくことになります。

では、ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスは私たちの真の必要を満たされる

私たちの真の必要とは

イエスさまは五千人の給食の奇跡によって、1万人以上の人々の空腹をいやされました。おなかがすいて食べるものがないというのは切ないことです。私たちが日々の食べ物を求めることは当然のことです。

他にも私たちにはさまざまな必要があります。ある人は悲しみを抱えていらっしゃるでしょう。ある人は、人間関係で圧迫を感じているでしょう。ある人は経済的な必要を覚えているでしょう。ある人は、何をどう決断していいのか分からず、迷っていらっしゃるでしょう。それがどんな問題であれ、イエスさまにはそれらを解決する力や知恵があります。

ただ、聖書が教える救いとは、お金が手に入ることではないし、社会的に成功することではないし、人間関係が良好になることでもありません。結果としてそれらが与えられることがありますが、それが救いなのではありません。

聖書が教える救いは、罪が赦されて、神さまとの関係が回復することです。全知全能の神さまが私たちと仲良しでいらっしゃるなら、神さまは私たちに決して良くないことはなさいません。たとえ一時的には良くないことが起こっているように見えても、必ず最善のことを行なってくださっているはずです。

私たち人類が本当に必要としているのは、罪からの救いです。

救い主は真の必要を満たす

そして、イエスさまは私たちの罪が赦され、神さまとの関係が回復されるために来られました。そのためにイエスさまは十字架にかかり、3日目に復活なさいました。それを真実だと信じるだけで、私たちは本当に罪が赦され、それどころか神さまの子どもとして愛され、祝福されるようになります。
そして、やがてイエスさまはもう一度地上に戻ってこられます。その時私たちは復活して栄光の体に変えられます。もはや罪を犯すことのない体、飢えたり病気になったり死んだりしない体、シミやしわとは無縁の体、ダイエットも必要としない体です。そして、私たちは神の国に招き入れられ、幸せに暮らすことができます。

さらに千年後には、新しく作られた宇宙、「新しい天と新しい地」に招き入れられ、神さまと共に永遠に続く祝福を味わいます。

私たちがすべきこと

そのような祝福を手に入れるために私たちがしなければならないことは、イエスさまを罪からの救い主として信じることです。
まだクリスチャンではない方へ
この記事をお読みの方で、まだイエスさまを救い主だと信じていらっしゃらない方は、ぜひ今日信じてください。次の祈りに同意できますか?

「天の父なる神さま。私は罪人です。あなたを無視して自分が正しいと思うことを行なって生きてきました。しかし、御子イエスさまは、そんな私の罪を赦すために、私の身代わりとして十字架にかかってくださいました。そして、死んで葬られましたが、3日目に復活なさいました。それを真実だと信じます。私の罪はイエスさまのおかげで赦され、私はあなたの子どもにしていただきました。ありがとうございます。あなたの子どもとして、これから永遠によろしくお願いします。イエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン」。

「アーメン」とはその通りという意味です。26節の「まことに、まことに」は、原文では「アーメン、アーメン」です。もし、この祈りに同意できるなら、ぜひそうお祈りください。
クリスチャンの方へ
すでにイエスさまを救い主だと信じておられる方は、毎日改めて自分がイエスさまによって罪を赦され、神さまの子どもとして愛され、祝福されていることを感謝しましょう。感謝は、私たちの信仰を表現する良い方法です。

神さまに赦されている感じがしないときも、愛されている感じがしないときも、最善が行なわれていると感じないときも、それでも自分は赦され、愛され、最善の人生を歩んでいると信じて感謝しましょう。

連絡先

〒962-0001
福島県須賀川市森宿辰根沢74-5

TEL 090-6689-6452
E-Mail info@nakakomi.com