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礼拝メッセージ:中通りコミュニティ・チャーチ

わたしの心だ

イエス・キリストの生涯シリーズ16

マルコによる福音書1章40節〜45節

(2023年1月29日)

わたしの心だ」とは、イエス・キリストツァラアトという重い皮膚病をいやした際に語った言葉です。この言葉にはイエスのどんな心がこめられているでしょうか。

礼拝メッセージ音声

参考資料

40節の「ツァラアト」(ヘブル語。ギリシア語では「レプラ」)は、モーセの律法で取り上げられている特別な皮膚病。これにかかった人は宗教的に汚れていると宣言され、他の人との接触を禁じられ、町の外で生活しなければならなくなりました。なお、家の壁や布、革製品などに出るツァラアトもあり、こちらは悪性のカビでしょう。

以前は、人がかかるツァラアト/レプラはハンセン氏病と同一視されて、日本語訳聖書では「らい病」と訳されていましたが、現在は当時のパレスチナにハンセン氏病はなかったことが判明しています。そこで、最近の日本語訳では、ヘブル語の「ツァラアト」をそのまま使ったり(新改訳)、「重い皮膚病」と訳したり(新共同訳)しています。

イントロダクション

私たちクリスチャンが、どんな状況でも喜びや感動や希望を失わないでいられるかどうかは、私たちが信じるイエスさまのことをどのようなお方だと考えているかにかかっています。

イエスさまがあまり力のない方だったり、私のことが嫌いだったり、けっこう約束を破る方だったり、祈りを聞く代わりにお金などを要求する方だったりしたら、安心できませんよね? あなたが信じているイエスさまはどんなお方でしょうか。

今回は、ツァラアトという病気にかかっている人を、イエスさまがいやしたという記事を取り上げます。イエスさまはこれまでも多くの病人や怪我人や障がいのある人をいやしてこられましたが、今回のいやしはこれまでとはまったく質が異なります。

今回の記事を通して、私たちはイエスさまのすばらしさに触れ、改めてこの方と共に生きることは安心・安全だということを確認しましょう。

1.特別な奇跡

ツァラアト

今回の話を理解するために、まず聖書の中でツァラアトという病気がどのように取り扱われているか、そして、福音書の時代のユダヤ人たちが、この病気のことをどのように理解していたかを解説しておきます。
モーセの律法の教え
ツァラアトは、モーセの律法で取り上げられている慢性的な皮膚病です。
ツァラアトを疑われる人が出ると、律法に則って祭司がその人の体を調べ、ツァラアトであるか普通の皮膚病であるか診断します(レビ13章)。そして、ツァラアトだと確定すると、祭司はその人に向かって「汚れている」と宣言します。

ツァラアト患者として汚れていると宣言された人は、衣服を引き裂き、髪の毛をかき乱し、口ひげを覆って「汚れている、汚れている」と叫びます。これは、他の人が間違って自分に接触しないようにするためだと理解されています。律法によれば、汚れている人やものに触ると、触った人もその日1日、あるいは7日間汚れてしまい、生活が制限されてしまうからです。

モーセの律法では多くのもの・動物・人の存在や状態が、きよいか汚れているか厳格に区別されています。そして、汚れているものは食用が禁じられ、ものによっては触ることさえ禁じられました。

ツァラアト患者として汚れていると宣言された人も、他の人が触ることができません。そこで、ツァラアト患者は町に住むことができず、福音書の時代には隔離された地区で他のツァラアト患者と共同生活を行なっていました。

モーセの律法が与えられた時代、イスラエルの民は集団で移動生活を行なっていました。つまり密集した生活で、感染症がうつりやすい状態だったのです。ですから、伝染の可能性を低くするためと考えれば、ツァラアト患者に触れないよう共同体から切り離すのは理にかなっています。

それでも、本人にとっては愛する家族や友人たちから切り離され、礼拝など様々な宗教行事にも参加できないわけですから、とてもつらくて悲しいことです。

今回の箇所に登場するツァラアト患者は、同じできごとを描いているルカ5:12には、「全身ツァラアトに冒された人」と書かれています。ですから、このような寂しくて悲しい生活を、ずいぶん長いこと続けてきたのです。おそらく何十年も味わってきたことでしょう。
ツァラアトがいやされた記録
もちろん、ツァラアトが治れば、元の生活に戻ることができます。ところが、モーセの律法が完成してから、ユダヤ人でツァラアトがいやされたという記事が、旧約聖書の中にありません。
  • モーセの姉のミリアムのツァラアトがいやされたのはモーセの律法が完成する前ですし、ナアマン将軍は異邦人です。
旧約聖書だけでなく、記録好きの民族として知られるユダヤ人たちの文書にも、ツァラアトのいやしの記録がありません。

レビ記14章には、ツァラアトがいやされた場合の確認方法やきよめの儀式について、丸々1章を使って定めています。そのような病気は他に例がありません。それにもかかわらず、いやしの記録がないのは不思議です。

そして、ミリアム、エリシャの従者ゲハジ、ウジヤ王は罪を犯したためにツァラアトにかかりました。
ツァラアトのいやしに関する当時の理解
そこで、ユダヤ教の教師たちは次のように教え始めました。「ツァラアトは罪のさばきの結果かかる特別な病気であり、普通はいやされない。ただ、救い主だけがいやすことができる」と。

すなわち、もしも誰かがツァラアトをいやしたなら、当時のユダヤ人たちの理解では、「その人は救い主だ」ということです。

ツァラアト患者のいやし

ツァラアト患者の懇願
「さて、ツァラアトに冒された人がイエスのもとに来て、ひざまずいて懇願した。『お心一つで、私をきよくすることがおできになります』」(40節)。

長いことツァラアトに苦しんできた人が、イエスさまのところにやってきました。そして、自分をいやしてくれるよう願います。ここで、普通とは違う言い回しが2つあることに注目しましょう。

まず彼は、「いやしてください」ではなく、「きよくすることができます」と言っています。これはすでに解説したように、ツァラアトはただの病気ではなく、それにかかると宗教的に汚れていると宣言されます。この病気がいやされたなら、再びきよい状態になります。ですから、「きよくすることができる」という言い方をしているのです。

もう一つの特徴的な言い回しは、「お心一つで…おできになります」という言い方です。「きよめてください」と率直に願わず、ずいぶんと遠慮がちに聞こえます。

この人もユダヤ人ですから、救い主しかツァラアトをいやすことができないと教えられ、それを信じていました。そんな彼がイエスさまにツァラアトのいやしを願ったということは、イエスさまは救い主だと信じていたことになります。

しかし、その一方で、救い主であるイエスさまがこの自分にあわれみの心を向けてくださり、いやしてやろうと思ってくださるかについては自信がありませんでした。彼はイエスさまの力は信じていましたが、愛については確信がなかったのです。

なぜでしょうか。

律法が定めている汚れというのは、あくまでも宗教的、儀式的な汚れです。その人自身が、他の人よりも人格的に劣っているとか、邪悪だとかいうことではありません。ところが、人間には、他の人を差別したりいじめたりすることで、することで自分が優れているのだということを証明したい性質があります。そんなわけで、当時多くの人たちが宗教的な汚れを差別の理由として、ツァラアト患者を徹底的に虐げました。
このツァラアト患者も長いこと人々からいじめられてきました。道で人とすれ違うときには、みんな目を背け、逃げるようにして足早にその場を立ち去ります。人によっては、罵りの声を上げ、石を投げてきたりします。家族も友だちも、誰も自分に近づこうとしません。

そんなことを何年も、何十年も経験し続けていたら、人の善意を信じることが怖くなるのが当たり前です。

では、イエスさまはどうなさったでしょうか。
イエスの行動
「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた」(41節)。

イエスさまは、この人を深くあわれまれました。これまで彼が経験してきたつらさ、悲しさ、くやしさ、絶望、孤独を理解し、そこから救い出してやりたいと願われました。再び家族や友人たちとの温かい交わりを回復してやりたい、礼拝を通して神さまと交わる喜びを回復してやりたいと願われました。この人の幸せを実現したいと願う心、それが「イエスさまの心」です。

そして、宣言なさいました。「きよくなれ」。

しかし、それだけではありません。イエスさまは、当時の常識では考えられないような行動をなさいました。ツァラアト患者に近づき、彼に触られたのです。イエスさまは、30km離れた場所にいる人を言葉一つでいやすことがおできになりました。いやすのに相手の体に触れる必要はありません。イエスさまは今回あえてツァラアト患者の体に触れたのです。

この人は長いこと他の人と接触することを避けていました。他の人に、宗教的な汚れを移さないためです。

イエスさまは、モーセの律法を完璧に守られました(ヨハネ8:46)。ですから、父親のヨセフや親戚が亡くなって遺体に触れるなど、生活の中でやむを得ず汚れたものに触れなければならなかったときには、律法の定めに従ってきよめのための期間を守られたはずです。今回も、その覚悟を持ってイエスさまはこの人に触れられたのです。

それは、この人が必要としていたのは、単に肉体的ないやしだけではなかったからです。この人は、心のいやしも必要でした。そのためイエスさまは、この人が何十年も経験していなかったこと、他の人から温かい言葉をかけられ、優しくスキンシップされる経験を味わわせました。
さあ、どうなったでしょうか。
いやし
「すると、すぐにツァラアトが消えて、その人はきよくなった」(42節)。

イエスさまのことばには権威があります。前回学んだように、神さまに逆らう霊である悪霊でさえも言うことを聞かざるを得ない迫力を持っています。誰もいやすことができないツァラアトも、イエスさまは短い言葉一つでいやされました。

もちろん、彼が経験したのは肉体的ないやしだけではありません。自分は誰からも愛されていないという心の痛みもいやされました。

いやしの後

2つの命令
「イエスは彼を厳しく戒めて、すぐに立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめのささげ物をしなさい」(43-44節)。

イエスさまはいやされた人に、このことを誰にも話さないよう厳しく命じました。その理由は書かれていませんが、今回のいやしが救い主しかできないと教えられてきた奇跡だったので、今回のできごとが広まってしまうと、人々が熱狂しすぎる恐れがあったからでしょう。

イエスさまは、これまでご自分が救い主だということを人々に信じさせようと努めてこられました。ですから、救い主だけが行える奇跡によって、人々がイエスさまのことを救い主だと信じるならむしろ素晴らしいことのように思えます。

ただ、福音書時代の人々が救い主に抱いている期待は、必ずしも聖書が教える救い主のイメージと同じではありませんでした。当時のユダヤ人の多くが期待していたのは、自分たちを支配するローマ帝国からイスラエルを独立させてくれる、政治的な解放者でした。
一方で、罪を赦し神さまのとの関係を回復してくださる救い主のお働きについては、あまり関心を持っていませんでした。むしろ彼らは、ユダヤ人として生まれただけですでに救われていて、将来神の国に入るのは決定していると教えられ、そう信じていました。彼らは罪を赦され、救われる必要性を感じていなかったのです。

そんなユダヤ人たちが、今回の奇跡のことを知ったら、イエスさまは政治的な解放者として祭り上げられて、かなり面倒なことになりそうです。そこで、イエスさまはいやされた人に「誰にも言うな」と命じました。

ただし、祭司にきよめを宣言してもらうまでは、相変わらず宗教的には汚れたままで、制限は撤廃されません。そこで、祭司の元に行っていやされたことを確認してもらい、モーセの律法に書かれているいけにえをささげ、きよめの儀式を行なってもらうよう命じました。
奇跡の結果
「ところが、彼は出て行ってふれ回り、この出来事を言い広め始めた。そのため、イエスはもはや表立って町に入ることができず、町の外の寂しいところにおられた。しかし、人々はいたるところからイエスのもとにやって来た」(45節)。

イエスさまの危惧したとおりになってしまいました。いやされた人は、イエスさまの言いつけを守らず、イエスさまが自分のツァラアトをいやしたことを、祭司以外の人たちにも言いふらし始めたのです。

その結果、熱狂した人たちがイエスさまの元に続々と集まってくるようになり、町を出入りするのも難儀な状態になりました。

昔のアイドルが、当時のファンの熱狂ぶりについて話すのを聞くことがあります。「出待ち」のファンたちがテレビ局やラジオ局の周りに人垣を作るので、普通の昇降口から出ることができず、業者さんに変装したり、荷物の中に紛れ込んだりしたそうです。アイドルも大変ですね。このときのイエスさまも、まさに出待ちのアイドル状態だったのです。
そこで、イエスさまは町の外の寂しいところで多くの時間を過ごされました。

マルコの福音書では、今回のできごとを描いた記事の直前に次のような言葉があります。

「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた。すると、シモンとその仲間たちがイエスの後を追って来て、彼を見つけ、『皆があなたを捜しています』と言った。イエスは彼らに言われた。『さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから』。こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた」(マルコ1:35-39)。

元々イエスさまは朝早くに町の外に出て行き、天の父なる神さまに祈る習慣があったようです。救い主として活動する上で、父なる神さまから知恵や力や励ましたを受け取ることは、イエスさまにとってどうしても必要なことでした。ところが、それも満足にできないほどに、人々がイエスさまを求めていました。

今回、言いつけを破った元ツァラアト患者のせいで、イエスさまは町のアイドルのような不自由を経験しなければならなくなりました。それは災難であった一方、幸いでもありました。父なる神さまとの交わりの時間を、より長く持つことができるようになったからです。

それでも、ファンが執念深くアイドルを追い回すように、民衆もイエスさまがどこにいるのか探し当てて、イエスさまの元にやってきました。当時のイエスさまは、私たちと同じような肉体をお持ちでした。当然、疲れを覚えます。大変ですね。

大学生1年生の時、学校の教養行事で「ジーザス・クライスト・スーパースター」というミュージカルを観ました。このミュージカルは、イスカリオテのユダの視点からイエスさまを描き、特に人間としてのイエスさまの苦悩に焦点が合わせられています。大ヒットした反面、欧米を中心に「聖書的ではない」としてかなりの批判も起こりました。

劇が終わった後、仲の良かったクリスチャンの友だちがひどく憤慨していました。あの劇の中で、多くの群衆がイエスさまの元に「いやしてください」「助けてください」「救ってください」と迫ります。するとイエスさまは頭を抱えて叫びます。「私は知らない。自分で自分を救え!」 友だちは「そんなこと、聖書に書いてない!」と怒っていたのです。

当時私はクリスチャンではありませんでしたが、今だったら私も憤慨したことでしょう。聖書が教えるイエスさまは、多くの群衆が詰めかける状況でも、求める人々を受け入れ、彼らをいやし、教え、導かれました。イエスさまは、なんと力に満ちたお方でしょうか。そして、なんと愛にあふれたお方でしょうか。

では、ここから何を学ぶことができるでしょうか。

2.イエスの力と愛を信じよう

イエスの力

イエスさまは、誰も行なうことができないと信じられていた奇跡を、言葉一つで行なうことができました。

イエスさまは救い主であり、神が人となられたお方です。ですから、イエスさまに不可能はありません。イエスさまは、問題だと思えるようなひどいできごとを、最終的に祝福に変える力さえお持ちです。

私たちの側で、イエスさまの力を制限しないようにしましょう。それがどんな状況でも平安と希望を抱き続けられる秘訣です。

イエスの愛

ただ、どんなにイエスさまに力があったとしても、今回のツァラアト患者のように、自分のためにその力を発揮してくださるかどうか不安になれば、やっぱり不安になりますね。

イエスさまがこの自分を愛しておられ、この自分を絶対に幸せにしたいと願っておられること、それこそイエスさまのみこころだということを忘れないようにしましょう。

イエスさまは、あなたを救うために十字架にかかられました。ご自分の命を捨てても惜しくないと思うほどに、あなたのことを愛しておられます。そして、あなたのことを絶対に幸せにすると決めておられます。
そのことを信じましょう。それが私たちに平安と希望に満ちた人生を与えます。

まとめ

イエスさまは私たちを愛しておられます。そして、その無限大の力を使って、私たちを必ず幸せにしてくださいます。それを信じましょう。

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